一度ついた師風は、なかなか消えない。真っ白の布についた色は、洗ってもなかなか落ちず、別の色で染めようとしても、より濃い強い色でないとうまくいかないのと同じである。花嫁さんの白無垢のたとえと同じである。別の言い方をするならDNAの移植みたいなもので、師匠が個性的であればあるほど、移植は不可能となる。
ところが、師を失った後の弟子たちからは、徐々に師風が風化していく。しばらくは変わらないが、つっかえ棒がなくなったような感覚になり、一人で模索を始める。周囲からは低迷していると見られるが、それは新しいスイングをするためのバックスイングの時期。インパクトの瞬間を想像しながら、力をためている時となる。
師風の些末なところが案外残り、骨格というか構造というか、つまりコアの部分が、大陸のプレートが年に数cmずつ移動するように少し少しと変化していき、やがて作家の中での地震となって、作風が変化することとなる。ある意味では、作家はそのところからが、真のスタートとなるのかもしれない。
しかし、人はそれぞれで、師風が固定化してしまった人からは変化の兆しがあまり見えない。深化も進化もないけれども、その作風に込められた変わらない表現は、師匠のオマージュともなり、一定以上の評価を受けることになるはずだ。老舗の味を守る人がいても、それはそれで健全である。
さて、世間には、多くの商品が出回っていて、商標とか著作権、肖像権などの知的財産が認められ、さまざまにそれらを保護する仕組みがある。しかし書は、本来が古典古筆をまねるところから始まっているので、ある一作家の文字の姿が飛び火して、違うところに影響が出たからといって、その造形は権利等保護されてはいない。
今後、自分の作品の、あの文字が、誰々さんに盗用されたといって、訴訟を起こす人が出てくるかもしれないが、いまの「業界」のムードでは、まねされるぐらいになれてよかったんじゃない、ぐらいの反応で、訴訟だなんて大人げない、と考える人が大半だ。
師匠の文字を弟子が受け継ぐことは、財産を子孫が相続するのと同じ発想である。師弟でない他者がまねることも、全くあってはならないことではない、否定も肯定もないグレーゾーン。そこには、書そのものが、コピーすることから出発し、コピーを肯定する文化であることの、微妙な空気が流れている気がする。
ぼくは、祖父について書を学んできたが、職業として本格始動し始めたちょうどその頃、祖父は他界してしまった。だから、はじめからつっかえ棒がない状態でいる。当然いまも模索中。ぼくの中での地震は、どれも強くは体感しないものばかりで、大きなパラダイムの変化は、いまだやってきていない。師風を継承したい気持ちもあるが、それでも、変化したいと思っている。転がる石は苔むさず。Like a Rolling Stoneでありたいと思っている。
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