そこで、“近代日本画の構図”なのだ。とくに明治から昭和にかけての日本画、主に花鳥画には、かな書の散らしのヒントが満載だ。
一番すぐに使えるのは、画面の右下と左上に絵の主題を置き、その両者が呼応しあうというもの。若干右下が軽く、左上が重めとなる。寸松庵色紙にも見られる散らしだ。ぼくも小品を製作するときには活用している。しかし、これ一つとっても、変化のつけ方はさまざまだ。
右上と左下にモチーフを置いた絵画も、書に応用できる。その場合は右上が軽め、左下が重めとなる。
中央を大きく、両サイドを低く控えめにする、というのも、普通に使われている。
散らしを考えるときに、もっとも大切になるのが、「白」のとらえ方である。
書は、筆で書かれた墨の「黒」だけで成り立つのではなく、「黒」と紙の「白」が組み合わされてはじめて書となる。文字の中の「白」はよく、ふところ、といって、文字の広がり感をあらわしたりする。
そして、行間。これも非常に大切だ。かな書においては、行間をほぼ均等にとる漢字書とは違って、少しずつの開け閉めをおこなうことで、散らし的効果に結びつける。
また、構図のなかにある「白」のかたまりは、大きな三角であったり、四角であったりする。先ほど述べた右下と左上の構成をとる場合は、中央に平行四辺形の「白」が出来ることになる。
日本画の名品の多くは、この「白」が大胆だ。主題をぱっと描いて、あとは見事にその余韻だけの「白」を見せる。魅せる、といってもいい。この構図は是非使いたい!と思う作品にどんどん出会うのだが、なかなかそれを書に応用することが出来ないもどかしさ。やはり、絵の構図を書に変換するのには、特別のソフトウエアが頭脳にインストールされていなければならないようだ。
それに、自宅に帰って図録や画集を見ても、実物の白の余韻が、残念ながら再現されない。サイズの限界なのか、余白を含めた構図を研究するには、やはり実物でなければならないようだ。1つの作品の画像を40インチ以上のディスプレーぐらいに伸ばしてみるなら、何とかなるかもしれないが。
かな書の古筆は原寸のいい印刷物が出ていて、本でも追体験は比較的可能だが、絵はなかなか実物の空気が出ないなぁ、と思ったりする。
日本画とかな書、結局、根源的な日本人の美意識の部分で、共通する感覚があるように思える。華道なども立派な日本の美だし、先ほどの造園なども、根源にそれが根ざしていることはいうまでもない。つまり、研究材料ははてしなくあると言っていい。美術のキモとはなんと奥深いものなんだと、つくづくため息をつくばかり。
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