それが「反り」の問題だ。お手本を書いた人物がひとりにもかかわらず、複数の門下生が仕上げる作品は、なるほど、そこそこ似てはいるのだが、詳細に見ると、どことなくすべて違う。線の力が違う、大小のつけ方のダイナミズムが違う、余白の取り方や繊細さが違う。一門の外部からはなかなかその相違点が見えないかもしれないが、内部では違いが大きく感じられるものだ。
当たり前のことではあるが、書き手が変わると、書自体はまったく別物となる。お手本のレベル自体が一定とはいえなくとも、ひとりの師匠が書いたお手本自体は、ほぼ同じ線とほぼ同じ空間性で書かれているだろうに、コピーである門下生の作品には、見事に各人のクセが出ている。おのおの似てはいるが違う作品が出来上がっていくわけだ。
それは木材でいうところの「反り」であるわけで、指導者は時間をかけて、もうこれ以上反らないだろう、というところまでじっくりと待ち、注意深く進展を見つめることが必要となる。これが書における門下生の作品作りの指導、ということになる。
「反り」とはいけないものなのか、という疑問が生じる。「反り」こそが個性であり芸術ではないのか、という問題も出てくる。実際、それがむずかしいのだが、ただの「反り」は芸術ではなく、ただ暴れているだけの場合が多く、個性といってもそれは、「自分勝手」と同義語となると考えてもよさそうだ。木材が反りきったところから楽器作りがはじまるように、暴れた個性をまずは出し切ったところから、書の指導は始まるのかもしれない。
「暴れ」ではない個性の発露。自分勝手でない「反り」。これが最終的に目指す世界ではある。だが、ひとりの師匠がどれほど忍耐強く、どれほど門下生の個性に寛容であるかは、たぶん、書の指導という分野においての、もっともむずかしいところではないかと思う。こと細かに重箱の隅をつつくべきなのか、全体の印象を優先すべきなのか。
最終的には、お手本がなくても、自分らしさを表現できる作家を育成するのが師匠の役目であるのだが、実際は、書作家としてすぐれた師匠であればあるほど、その書作家の経年変化というか変遷に門下生は追随していくケースが多い。一門の中での整合性、ムードの一致は避けがたく、ひとりの独立した個性が複数一門にあるという理想はなかなか実現できていない。
「狂い出し」を行うことが、書の指導においては、全面的に肯定出来るものではない。しかし、ほっておくと、どんどん「反り」が出て「暴れ」るのが門下の作品であることも、古くから変わらない一つの事実である。表現者としての書作家にとって門下の育成は、制作に並ぶ本業の仕事ではあるのだが、なかなかうまくいかない手探りの作業といえそうだ。
2011年5月
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