ノーベル賞をお取りになった田中耕一さんをはじめ、失敗したと思えることからヒントを得て、自分の業績を大きく引き上げた例は意外に多く、画期的な発明も失敗や偶然から生まれたことはよく知られている。各界の著名人が自身の身の上を回顧する日本経済新聞の「私の履歴書」などにも、失敗や偶然からチャンスを得た話が毎月多く掲載されている。
偶然の出会いをしない人はいない。失敗をしない人もいないのだが、それを自分の幸福につなげられるかどうか。確かに、これは人生を進めていく上で、非常に大切なことのように思える。失敗をチャンスと見るかどうか。その偶然を自分に引き寄せられるかどうかが、「セレンディピティ」の力なのだそうだ。
書もハズレを続けていくうちに、アタリに到達する。書けば書くほどよくなるとは一概にはいえないが、基本的には、反省し修正しながら、一枚一枚進歩していくのが、書作品の制作である。そこにもセレンディピティの能力が関係する。
書き始めるときに仕上がりのイメージが明白である必要はない。書き進めるうちに、徐々に作品の姿が浮かび上がり、バランスのイメージが湧いてきて完成に向かうこととなるのだが、書きつぶしの中の偶然を生かし切れないと、細かい修正ばかりで、ゴールが見えず、なかなか完成しない。偶然を生かすということは、感性の柔軟性でもある。あれはダメこれはダメというような消去法での制作でなく、はっとするような「驚きのある」表現が出来た一枚は、少々ほかが悪くとも大切にすべきだと思う。
ぼくは、かな作家なので、日本語を使うのが仕事である。それ故、題材なども比較的日常生活の中でピンとくることがあって、はじめの草稿は結構早くイメージできるのだが、作品の草稿があっても、使えるかどうかは実際の大きさの紙に書き始めないと分からない。案外イメージなく何となく書いているうちに、いきなり完成形があらわれることがあって、その場合は多少未完成でもそこで終わることにしている。これもセレンディピティの力といえそうだ。
ぼくは文献研究などを積み重ね、学問を一歩一歩積み上げていく研究者ではなく、インスピレーションに基づいて発想を変容させていくことの方が向いているみたいで、今思うと、学生時代に時間をかけた哲学の研究などの緻密な論理の構築の世界には、頭脳云々の前に、そもそもむいておらず、足を踏み入れるべきではなかったのかもしれない。
ただ、哲学を学んだ中で、「【なぜ】と思うことや【驚き】の感情を持ったときに、ヒトはものを考え始め、それが哲学になっていく」という当時の先生が授業で述べておられたフレーズを今もとても大切にしている。
書もまた、「なぜ」と「驚き」が大切だと思う。そして今日からはその二つに「偶然力」を追加しようと思っている。本屋で偶然出会った一冊に生涯を奪われることもあるように、なにげなく書いた一枚が傑作になることは、書道史の常識でもあるからだ。
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