「人間の未来が幸せになることを願って、草の根の文化活動をする人たち」のもと、取手市立図書館で「壁画展」は出発させてもらえた。その時、私は28才。
それからの1年半、沖縄市、埼玉県蕨市、東京虎ノ門、栃木県宇都宮市、茨城県土浦市、大阪府松原市、埼玉県上尾市、滋賀県長浜市と、各地の人たちの力で壁画展は実現していった。
実現してくれたのは、「寺小屋学園」を支えてくれた人たち、子どもたちに本の世界を手渡す活動や、公民館・図書館に根ざして地域で文化をつくろうとする人。みな「人間が成長する上で大切なものを、文化を通して手渡したい」と理想に向かって生きる人だ。
壁画家として歩み始めたばかりの私にとって、この1年半が、どれほど大切なものだったか。「松井エイコ壁画展─人間を描く─」と題した展示物65点と共に出かけた私は、そこで出会う人たち一人一人に、育てられた。 その中で、沖縄のことを書きたいと思う。
1986年12月、初めての沖縄。那覇空港に着くと、沖縄の太陽のようにまぶしい笑顔の真栄城栄子さんと、栄子さんの夫の真栄城玄徳さんが待っていてくれた。真栄城夫妻は沖縄市に住み、栄子さんは児童文化活動に取りくんでいる。玄徳さんは嘉手納基地に土地を持つ反戦地主で、平和の問題に向かい続けている。栄子さんが沖縄市立図書館に働きかけて、図書館と教育委員会の主催で、沖縄市文化センターでの壁画展開催をかなえてくれた。
空港からすぐに、真栄城夫妻は展示会場ではなく、私を南部戦跡に連れて行った。南部にはあの戦争で命を奪われ、踏みにじられた人々の叫びが詰まっているー日本が起こした侵略戦争の時、日本軍に捨て石にされた沖縄では苛烈な地上戦となり、たった3ヶ月間に23万人以上が死んでいる。その多くは女性や子ども、一般住民だ──。
一家全滅の跡、十代の子どもたちの命が無惨に奪われた壕、誰ともわからぬ何万人もの散乱する骨を拾い納骨した魂魄の塔。そして南端の喜屋武岬に着く。ここは追いつめられた多くの住民が絶望し、身を投げた断崖だ。青い珊瑚礁の海は赤い血に染まったという。
胸をえぐられる思いで海を見つめる私に、玄徳さんが語りかけた。
「沖縄の人間は、この海のかなたに、ニライ・カナイという国があることを信じて、苦難の歴史の中を生きてきたのです。ニライ・カナイとは幸せを持ってきてくれる国のことです。ニライ・カナイを求めることは、未来の希望に向かって生きることなのです」
栄子さんと玄徳さんは、「二度と繰り返してはならぬ戦争の暗黒」と同時に、「その暗黒から立ち上がった沖縄の人々が、輝かせてきた文化」を、一つ一つ私の心に刻んでくれた。
沖縄独特の焼物(ヤチムン)、紅型(ビンガタ)、織物、建築、その形も色も、すべてが命の豊かさと人間への信頼に満ちている。栄子さんが家族や仲間と踊る、沖縄の踊り、太鼓、三味線(サンシン)、歌は、生きる喜びに溢れている。私は全身で飲み込むように、沖縄文化の輝きを受けとっていった。
壁画展開催の5日間、私は展示を見に来てくれるすべての人と語り合うことができた。初日の「来賓」は子どもたち。最初に会場に入った子どもたちの真っ直ぐな目が、展覧会の幕開けだった。会場を訪れる人は、赤ちゃんを抱いたお母さんも、若い人も、あの戦争の中を生きた人も。
壁画展が終了した翌日、真栄城夫妻は私を読谷村にある二つのガマ(洞窟)に連れて行った。それはチビチリガマとシムクガマだ。
チビチリガマでは83名が「集団自決」をした。ガマの中では、母親が自らの手で我が子の頸動脈を切り、家族はお互いにカマや包丁で首を切った。
その同じ時、シムクガマでは1000余人のすべてが生還した。
同じ村の人々を死と生に分けたのは何か。チビチリガマの中では、サイパン玉砕の生き残りの人が、死を叫び続けたという。シムクガマにはハワイの移民帰りの人がいて、生きることを説いたという。
洞窟そのものにも大きな違いがあった。
チビチリガマの入口は谷底に小さな割れ目のような口があいているだけだ。中に入ると暗闇に覆われる。ぬるぬるした湿っぽい洞窟は狭く、這うようにしか歩けない。懐中電灯の先に見えるのは、冷たく恐ろしい形の岩。
玄徳さんは、死んだ人々が倒れていた黒変した土の前で、「当時のままに」と懐中電灯を消した。
暗黒が襲う。鍾乳洞の水滴の音だけが不気味に響く。
何も言えず震える私を、真栄城さんはすぐに、シムクガマに連れて行った。
シムクガマは畑に向かって大きな口をあけている。その口からは、沖縄の明るい陽光がガマの中に差す。そこに立つと、畑から流れこむ小川のせせらぎが聞こえる。シムクガマの中で、陽光とせせらぎを感じていると、私の感覚の奥に、生への歓びが伝わり広がっていった。この光とせせらぎが、人々に「生きること」を選ばせたのではないだろうか。
私は願った。
「この光とせせらぎのような仕事がしたい。人間を幸せにできる空間を、生涯をかけて、壁画でつくりたい」と。
壁画展の中で出会った一人一人、その地に生きる人の姿、言葉、笑顔、内面の輝きが、いつも私の心にある。理想に向かって生きる人びとが、この地球上どこにでも存在するということを、私は喜びと共に、心の奥底に刻むことができたのだ。
そして「壁画とは、真に生きることを求める歩みと、その歩みをつくる人間の輝きを、描くもの」と私は捉え始めた。
このことが、次の壁画制作の中で、新しい人間の造形を生み出すこととなっていく。
(次回に続く)
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