自由の森学園の壁画に私が「十代の人間の内面」を描き、「理想に向かって生きる」ことをこめたのには、深い理由がある。
23才から4年間、私は「寺小屋学園」という学びの場を、十代の仲間と共につくり運営していた。「本当に学びたいことを学ぼう!」「生徒の生徒による生徒のための学校にしよう!」と理想を求めて、畳じき12畳半の部屋でのフリースクールだった。
この寺小屋学園を、なぜつくったのかということを語りたい。それを書くことで、私自身の根底にあるものと、その根底からどんなふうに壁画の道を歩んでいったのか、が見えてくると思う。
そのために時間を子どもの頃まで、さかのぼってみる。
私は子どもの頃、少し変な子どもだったかもしれない。ママゴト遊びで、友達がお父さんやお母さんの役をしている時、私はいつも犬の役をしていた。首にひもをつけ、四つん這いになってワンワン吠えていると、自分の大好きな犬になれたような気持ちで、誇らしく感じていた。きっと私は一番「自分らしい」役を、自分でつくりあげていたのだと思う。
ところが、そんな私は幼稚園に入園すると、通園拒否児になった。その幼稚園では『おゆうぎ』というのがあり、みんなでそろって同じ踊りを踊らなければならないだが、私は理由もなしにみんなと同じ踊りができなかった。楽しそうに踊っている友達の中で、一人だけボーとして、はみだしてしまう。そんな幼稚園が恐かった。
その私が、明星学園に入学すると、急に楽しい毎日が始まった。当時、明星学園は「人間の個性を尊重し、可能性を伸ばす、12年一貫教育」という理想の教育をめざしていた。そしてテストの点数で子どもを比べたり、競争させたりしない教育方針だった。
たとえば算数の授業。先生が「『じゅういち』は数字で書くと、こうなります」と言って、黒板に大きく『101』と書く。私たちはいっせいに「ちがうよ!」と叫ぶ。「どうしてちがうの?」と先生。それからは、自分の説を主張する先生を説得しようと、教室中から様々な意見が飛び出す。みんな、自分らしい考え方で、先生に向かっていく。
いつも元気のいい子が真っ先に、黒板の前で説明する。途中でわからなくなると、いつもは泣いてばかりいる子が、ハッとする意見でそれをつないでいく。
一人一人の自分らしさがつながり、共に考え「じゅういちは『11』と書く」という位どりの法則を、みんなで発見した瞬間、先生は「降参!」と叫んだ。その時の感動は忘れられない。
「自分らしいことは、すばらしいことなんだ。」
子どもの私の中に自信が生まれた。
そして「自分自身で考え、本当のことを見つける喜び」が心に満ちた。
こんなふうに授業の中で、一人一人が自分の意見を言えたのは、「点数で子どもを比べない」という前提があったからだ。先生が私たちの発言を「あっているかどうか」で判断したり、評価したりせずに、一人一人が真剣に考えたことを「おもしろい意見」として受けとめてくれたから、間違うことを恐れず、自分で考え、自分の意見をうったえることができた。
この明星学園の教育は私の中に生きる上での根底をつくってくれた。それは「自分自身の目で物ごとをとらえ、真実に近づいていく」ということ、そして「けっして、人と自分を比べない」ということの2つだ。子どもの時にもらったこの2つの宝物は、いつも私の心の中で輝き続けている。
だから14才の時、私は心の奥から沸き立つように「自分らしく生きたい」と求め、15才になった時、「好きな絵」で生きていくことを選ぶことができた。そして才能の有無ではなく、絵を描くことを通して、自分自身で物ごとを捉え、真実に近づきたいと願い、画家を志した。
ところが、私が美術大学の4年、22才になった時、明星学園で教育問題が起きる。
この頃、学歴信仰の流れが強まる中で、小中高12年一貫教育をうたっていた学園が、中学から高校への内部進学の際に、子どもたちを選別するテストを行うと発表したのだ。それは実質上、中学から高校へ上がる時に、何人かの生徒を切り捨てるためのテスト導入だった。
「点数で差別しない学校」が「点数で子どもたちを足きりにするテスト」を行うことは、親たち、生徒たち、そして「人間教育」を望む日本中の人にとっての大問題となった。親たちはすぐに、署名や授業料凍結の運動を始める。
その時、私の妹は14才。明星学園の9年生(中学3年)で、選別の対象にされる生徒だった。ある日、妹が同じ学年の生徒で集まり、今回の選別テストについて話合いをした録音テープを、家で聴いていた。テープから子どもたちの声が流れる。
「今度のテストはおかしい。点数で人をはからない学校がこんなことをするのは、まちがってる。」という疑問の声。「でも、テストのための勉強をするべきなんじゃない。」という声もでる。「もしテストに落ちて学校に行けなくなったら、家で毎日ゴロゴロしていることになっちゃう。そんなの嫌だ。」とポツリと話す声。
いっしょうけんめい話す14才の子どもたち一人一人の声を聴いているうちに、私の心の底から、叫びが吹き出した。
「この子たちのうち、何人かを切り捨てるっていうのか。こんなに豊かな個性を持っている子たち、一人一人が違う美しい色を持っている人間なのに!」
最も大切にしていることが、崩される。子どもたちが傷つく。怒りが私を動かした。
私はこの問題の中心に飛び込んでいく。
(次回に続く) |