私が初めて壁画を描いたのは、25才の時。美術大学の油絵科を卒業後、「自分らしく生きたい。今までにない、自分にしか描けない作品を創作したい」と渇望するのに、それを表す方法が見えなかった。絵が一枚も仕上がらない1年が過ぎた頃、一本の電話があった。東京・原宿にある児童書専門店『クレヨンハウス』からだった。
「うちの店に登っていく階段まわりの壁に、壁画を描いてくれる人いないだろうか?」
なぜか身体中が熱くなり、
「私がやります」
と、答えていた。
自分自身の人生にとって、大切なことは、心の奥底が一瞬で判断するのかもしれない。電話を切ってから、自分が壁画をつくる方法を全く知らないことに気づいた。油絵や水彩の描き方、版画のつくり方などの本はたくさんある。でも『現代の壁画のつくり方』という本は見あたらない。数年で、色落ちやはがれが起きてはならない。責任の重さに、眠れない夜が続いた。そして1週間後、私の行動の第一歩は、塗装屋さんに会うことだった。まず、デパートへ行き、千円ほどの菓子折を買い、それを持って知り合いの塗装屋さんを訪ねた。
「壁画をつくりたいのです。そのための下地づくりの方法を、どうか教えてください」
この一言から私の仕事はスタートした。
当時はアクリル絵の具を使い、壁に直接描くという技法だった。実際に描き始めてみると、壁画は、額縁に入る絵を描く時とは全く感覚が異なる。建築と共にある「動かせない壁」に毎日向かっていると、「新しい未知な何か」が見えてきそうな予感が胸にあふれた。
夢中になった私は、1ヶ月が完成期限だったクレヨンハウスの壁画を、2年間、描き続けた。暖房のない冬の寒さにこごえ、足場にのる疲労から右肩を脱臼。それでも、面白かった。お店に来るお客さんは、私の描いている姿に関心を持ち、クレヨンハウスは、「納得いくまで描いてください」と言ってくれた。
壁画が完成した時、私は「壁画には壁画にしかない世界がある。一生かけて、壁画の仕事をやっていこう」と、決めていた。
名刺に『壁画家』と肩書きを入れた。
壁画家として出発するには、次の仕事が重要だ。私は子どもの頃から「ぐずぐず」「ゆっくり」「ぼー」とした性分。だから自分を追い込むために、心の中で決心したことは、すぐに周りの人に叫ぶことにしている。
会う人ごとに「壁画の仕事がしたい」と言う27才の私に、次の仕事の場が生まれた。埼玉県飯能市の『自由の森学園』中学校・高校の校舎への壁画である。
2年半かけて、生徒たちに制作過程を見てもらいながら、「十代の人間の姿」をアクリル絵の具で、校舎4壁面に描いた。この自由の森学園でのことが、私の「今」を貫く大切なこととして、心に刻まれている。
壁画を集中して描いていて、ふと、何かを感じ、筆を休めると、私の後ろには必ず、壁画と私を見つめる生徒がいる。
最初に話しかけてくれたのは、
「姉さん」
その声に振り向くと、そこにいたのは、背中に金の龍の縫い取りのあるガクラン、リーゼントにつっかけサンダルの少年。
「姉さん、不良は描かねえの?」
まっすぐな目がそこにあった。
(次回に続く)
※クレヨンハウスは移転したため壁画は現存しません。 |