「理想に向かって生きる人間に成長していきたい」と、十代の仲間と共につくり運営した「寺小屋学園」は、1985年4月に閉じた。その時、寺小屋学園を支え、私たちを育ててくれた日本中の人たちに向けて、私たちは感謝の思いと共に「これからは一人一人が自分自身の道を見つけ、その道を歩む中で、理想をめざしていきたい」と手紙を書いた。
1986年の年明け、私は「寺小屋学園」を支えてくれた人たちに、私自身の年賀状を送った。それはハガキではなく、淡い色のラシャ紙を切り取り、二つ折りのカードのようにし、そこに「自由の森学園」中学校・高校での1作目の壁画を制作している写真を糊で貼って、つくったものだ。
28才の私がどんなふうに生きているのかを年賀状にしたかった。めざす理想に向かって、壁画家として歩き始めた喜びをこめ、壁画の写真を一枚一枚、貼っていく。そして茶色のサインペンで、手書きの文章を添えた。「壁画独特の世界を追求しつづける仕事の中で、私にとっての寺小屋学園を結実させたいと思っています」と。
この年賀状を見て、私にさらに新しい一歩を踏み出す機会をつくってくれた人がいる。茨城県に住む、有田道子さんだ。子どもたちに本の世界のすばらしさや、演劇などの文化を通して「生きる喜び」を手渡したいと、有田さんは1960年代からずっと、たくさんの仲間たちの中心となって草の根の児童文化活動を展開し続けている。その有田さんが、取手市立図書館に働きかけて、図書館主催の場で絵本や文庫の展示と一緒に「自由の森学園の壁画を紹介する展示」を実現してくれた。
嬉しかった。
同時に、子どもが成長する上で大切なものを、文化を通して手渡す、という活動の場で、「壁画を」と考えてもらえたことに、大きな責任を感じた。
展示のタイトルは「松井エイコ壁画展―人間を描くー」と決まる。
でも、実物の壁画を展示するわけではない。一点、一点の絵を紹介する展示とは違う考え方が必要だった。有田さんたちは本の世界で大切なことを届けている。私にとって、本はページをめくるごとに物語の中に入っていき、起承転結を通して、生きることを実感できる世界だ。ならば壁画展そのものも、一冊の本のように、見る人が順を追って壁画の世界に入り、壁画の制作過程を共に歩み、壁画にこめられたものを、自分のものにしてもらえる方法をとりたいと思った。
自由の森学園の壁画に使った材料は、合成樹脂でできたアクリル絵の具で、市販されていて、誰もが使える画材である。けれども、もとは1930年代の初めにメキシコの壁画運動の中で誕生した絵の具だ。だから水に溶いて描けるが、屋外でも落ちない耐久性があるといわれる。私は「この絵の具をこの壁に使って大丈夫なのだろうか」と、アクリル絵の具メーカーの人に会い、相談していく。
壁の下地づくりは、工事の現場監督さんが助けてくれなければできなかった。自由の森学園の新築の壁面は、アクリル絵の具が定着しない塗装仕上げがしてあり、最初、私は自力でその塗装を剥がそうとした。一人で壁面をサンダーで削り、削った塗装の粉だらけになっている私の姿を見かけて、現場監督さんが心配し、声をかけてくれた。そして「アクリル絵の具が生きる、長い時間が経っても剥がれ落ちることのない下地をつくりたい!」と願う私に、塗料メーカーの人、塗装屋さん、左官屋さんを会わせてくれて、皆の智恵で壁画に適した下地づくりを考えてもらい、工事をしてもらうことができた。
私にとっての壁画をつくる歩みとは、「壁画のつくり方」を知っている人は誰もいなくとも、出会った人から学び、共に考え、発見する喜びだった。
壁画家として歩み始めた私には、世の中が壁画の学校、寺小屋学園となっていた。
一つ一つ、壁画づくりをもう一度、自分の中で確かめながら、準備した展示物は65点できあがり、1986年の10月、搬入の日が来た。友人の車で運んだ展示物と共に、私が取手市立図書館に到着した時、迎えてくれたのは、有田さんの笑顔。そして文庫の活動をしている人たち。みんなで一緒に展示をした。子どもたちの未来が幸せなることを願って活動する人たち、一人一人の手で、図書館の壁に展示物が掛けられていく中にいて、私は、私自身と壁画が、皆に育てられていくのを全身で感じていた。
この人たちのもとで、初めての「壁画展」を出発させてもらえたことを、生涯、忘れることはないだろう。
(次回に続く)
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