「最も大切にしていることが、崩される。子どもたちが傷つく。」
怒りが私を動かした。
1980年の秋、私は明星学園の教育問題の中心に飛び込み、16才〜18才の高校生と共に「なんなんだ会」という会をつくる。そして選別テストの対象にされている14才〜15才の中学生たちと一緒に「私たち一人一人の可能性を伸ばすと言ってる学校が、内部進学の時に、生徒を切り捨てるテストをするなんて、おかしい。みんなで、考えてみようよ!」と、生徒みんなに向かって、呼びかけることを始めた。
それから半年間、私は大学に一日も通わなかった。ちょうど美術大学の卒業制作の期間にあたり、私は留年することになる。けれどもこの半年間は、私の中に「人間の姿」を刻みこむ。
十代の子どもたちと私は、40ページものパンフレットをつくって、配った。「明星学園の教育の中から自分が得たものって、なんなんだ?」と一人一人が自分の言葉で書いた。点数で生徒を比べたり、競争させない教育、人間の個性を尊重する授業の中でもらった大切なものを、一人一人の内面から確かめたかったからだ。
「流されずに、自分で考え、自分で決めること」「自分を表現できること!」「自分から何かやろうとすること」「世の中のつくったレールの上に乗るのでなく、自分のレールを築こうと思えた」と書く子どもたち。
明星学園は人間教育の理想をめざしていたが、理想そのものが学校にあったわけではない。それでも学校が理想を求める姿の中で、生徒たちは、自分に自信を持ち、未来に向かって生きる喜びを感じていた。
私たちは、「今、この大切なことが、失われてしまう!」とうったえ、生徒みんなで話合いを重ねた。校長先生にも質問に行き、パンフレットの発行を続ける。多くの親たちは「子どもを切り捨てるテスト」反対運動の波を起こし、教師の中から加わる人もいた。
けれども私たちの声は、すべて無視されて、選別テストは実施される。そして、3人の子どもたちが、中学から高校に上がる時に、学校から切り捨てられた。
さらに続けて高校1年のA君が、明確な理由のないまま「退学処分」にされる問題が起こる。「僕はこの学校で学びたい!」とA君は退かなかった。生徒たちは、たくさんの署名を集め、高校と何度も話し合う。母親たちは退学処分の撤回を求めて、校門前でハンガーストライキを決行した。でもA君は、明星学園の60年の歴史の中で初めて、強制退学させられてしまう。
明星学園の教育は、暗転した。
目の前で学校が理想を失うのを見て、全身で、怒りの涙を流した。私も、十代の子どもたちも。
くやしい。悲しい。
でも、希望がほしい。
「大人たちがつくった学校が理想を捨てるのなら、私たち生徒が自分たちで、理想の学校をつくろう!!」「生徒の生徒による生徒のための学校をつくるんだ。」
それを実行に移すことが希望をつくることだった。「小さな小屋のような学校がいい。名前は『寺小屋学園』にしよう」「私たちが本当に学びたいことを学ぼうよ」と。
A君が強制退学させられた1ヶ月後の1981年5月、小さな畳敷きの部屋に『寺小屋学園』は誕生した。創立者は14才〜23才の16名。A君も創立者の一人である。明星学園が燃やし続けた理想の火が消えていく時、子どもたち自身が理想の「松明」をかかげた。「生徒自らがつくる日本初のフリースクール」の出発だった。
私と十代の子どもたちは、明星学園の教育問題の中で、二つの大人の姿を見た。一つは理想を捨てた大人の姿だ。A君の退学問題の時、生徒の前で「私たち高校教師は、自分の守備範囲に入る生徒しか教育する力がない。だから守備範囲に入らない生徒には出ていってもらう」と平気で話す人たち。もう一つは、ハンガーストライキをしてくれた母親たちのように、どんなことがあっても理想を諦めず、現実に立ち向かい、本当のことを求めて生きる大人の姿だ。
私たちは、理想に向かって生きる人間に、成長していきたいと、心に刻んだ。だから寺小屋学園で、学びたかった。
寺小屋学園の授業は、毎週の金・土・日の午後1時28分から5時8分まで。生徒自身で授業のテーマを決め、講師を選び、講師依頼をしてスケジュールをつくる。「一人一人が自分で考えて、意見を言える授業」「わからない!とこだわれる授業づくり」「自分が将来やりたいことを見つけるための学び」をめざした。数学や歴史、国語の先生だけでなく、新聞記者、俳優、絵本作家など、専門の仕事をしている人たちにも、授業を頼んだ。
日本中の大人たちが「縁の下費」としてカンパをして支えてくれた。白板や机をつくる材木を送ってくれる人も。寺小屋学園の運営は4年間、続いていく。
明星学園の問題から寺小屋学園づくりまで、子どもたちの中で一番年上の私は、すべての責任を抱えた。特に寺小屋学園の運営は、お金のことや一人一人の自立の問題と向き合うことになり、大変で苦しかった。でも、途中でやめられなかったのは、十代の人間たちが、輝いていたからだ。
寺小屋学園の授業の中で、私は見た。自分らしい意見を言う子の目。深く考える姿。新しい発見をした喜びの顔。一人一人の人間が人間らしく伸びようとする姿は、美しい。
私は、この本物の人間の美しさを、絵を描くことを通して、一生追求していきたいと願った。
1985年4月、寺小屋学園がかかげた理想の松明を、さらに大きく燃やす学校が創立する。それが「自由の森学園」中学校・高校だった。大人たちが、この「生徒に点数をつけない学校」をつくったことで、寺小屋学園は役割を終え、閉じる。そして寺小屋学園で学んだ私たち一人一人は、自分のやりたいことを見いだしていく。
27才の私は、「壁画家」の道を選び、めざす理想に向かって、歩み始めた。
(次回に続く) |