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壁画家 松井エイコ 壁画の道を歩み続ける 第2回 はじめての自立へ
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北海道士別市ふれあいの道公園壁画「未来を拓く四つの力」(ガラスモザイク W30×H3.1m 1997年 夜景)
写真・加藤嘉六
寺小屋学園

自由の森学園壁画モノクロ 「最も大切にしていることが、崩される。子どもたちが傷つく。」
 怒りが私を動かした。

 1980年の秋、私は明星学園の教育問題の中心に飛び込み、16才〜18才の高校生と共に「なんなんだ会」という会をつくる。そして選別テストの対象にされている14才〜15才の中学生たちと一緒に「私たち一人一人の可能性を伸ばすと言ってる学校が、内部進学の時に、生徒を切り捨てるテストをするなんて、おかしい。みんなで、考えてみようよ!」と、生徒みんなに向かって、呼びかけることを始めた。

 それから半年間、私は大学に一日も通わなかった。ちょうど美術大学の卒業制作の期間にあたり、私は留年することになる。けれどもこの半年間は、私の中に「人間の姿」を刻みこむ。

なんなんだ会パンフレット 十代の子どもたちと私は、40ページものパンフレットをつくって、配った。「明星学園の教育の中から自分が得たものって、なんなんだ?」と一人一人が自分の言葉で書いた。点数で生徒を比べたり、競争させない教育、人間の個性を尊重する授業の中でもらった大切なものを、一人一人の内面から確かめたかったからだ。
 「流されずに、自分で考え、自分で決めること」「自分を表現できること!」「自分から何かやろうとすること」「世の中のつくったレールの上に乗るのでなく、自分のレールを築こうと思えた」と書く子どもたち。
 明星学園は人間教育の理想をめざしていたが、理想そのものが学校にあったわけではない。それでも学校が理想を求める姿の中で、生徒たちは、自分に自信を持ち、未来に向かって生きる喜びを感じていた。
 私たちは、「今、この大切なことが、失われてしまう!」とうったえ、生徒みんなで話合いを重ねた。校長先生にも質問に行き、パンフレットの発行を続ける。多くの親たちは「子どもを切り捨てるテスト」反対運動の波を起こし、教師の中から加わる人もいた。
 けれども私たちの声は、すべて無視されて、選別テストは実施される。そして、3人の子どもたちが、中学から高校に上がる時に、学校から切り捨てられた。
 さらに続けて高校1年のA君が、明確な理由のないまま「退学処分」にされる問題が起こる。「僕はこの学校で学びたい!」とA君は退かなかった。生徒たちは、たくさんの署名を集め、高校と何度も話し合う。母親たちは退学処分の撤回を求めて、校門前でハンガーストライキを決行した。でもA君は、明星学園の60年の歴史の中で初めて、強制退学させられてしまう。
 明星学園の教育は、暗転した。

 目の前で学校が理想を失うのを見て、全身で、怒りの涙を流した。私も、十代の子どもたちも。
 くやしい。悲しい。
 でも、希望がほしい。
 「大人たちがつくった学校が理想を捨てるのなら、私たち生徒が自分たちで、理想の学校をつくろう!!」「生徒の生徒による生徒のための学校をつくるんだ。」
 それを実行に移すことが希望をつくることだった。「小さな小屋のような学校がいい。名前は『寺小屋学園』にしよう」「私たちが本当に学びたいことを学ぼうよ」と。

 A君が強制退学させられた1ヶ月後の1981年5月、小さな畳敷きの部屋に『寺小屋学園』は誕生した。創立者は14才〜23才の16名。A君も創立者の一人である。明星学園が燃やし続けた理想の火が消えていく時、子どもたち自身が理想の「松明」をかかげた。「生徒自らがつくる日本初のフリースクール」の出発だった。

寺子屋学園・新聞記事 寺子屋学園・雑誌記事

 私と十代の子どもたちは、明星学園の教育問題の中で、二つの大人の姿を見た。一つは理想を捨てた大人の姿だ。A君の退学問題の時、生徒の前で「私たち高校教師は、自分の守備範囲に入る生徒しか教育する力がない。だから守備範囲に入らない生徒には出ていってもらう」と平気で話す人たち。もう一つは、ハンガーストライキをしてくれた母親たちのように、どんなことがあっても理想を諦めず、現実に立ち向かい、本当のことを求めて生きる大人の姿だ。
 私たちは、理想に向かって生きる人間に、成長していきたいと、心に刻んだ。だから寺小屋学園で、学びたかった。

 寺小屋学園の授業は、毎週の金・土・日の午後1時28分から5時8分まで。生徒自身で授業のテーマを決め、講師を選び、講師依頼をしてスケジュールをつくる。「一人一人が自分で考えて、意見を言える授業」「わからない!とこだわれる授業づくり」「自分が将来やりたいことを見つけるための学び」をめざした。数学や歴史、国語の先生だけでなく、新聞記者、俳優、絵本作家など、専門の仕事をしている人たちにも、授業を頼んだ。
 日本中の大人たちが「縁の下費」としてカンパをして支えてくれた。白板や机をつくる材木を送ってくれる人も。寺小屋学園の運営は4年間、続いていく。
 明星学園の問題から寺小屋学園づくりまで、子どもたちの中で一番年上の私は、すべての責任を抱えた。特に寺小屋学園の運営は、お金のことや一人一人の自立の問題と向き合うことになり、大変で苦しかった。でも、途中でやめられなかったのは、十代の人間たちが、輝いていたからだ。
 寺小屋学園の授業の中で、私は見た。自分らしい意見を言う子の目。深く考える姿。新しい発見をした喜びの顔。一人一人の人間が人間らしく伸びようとする姿は、美しい。
 私は、この本物の人間の美しさを、絵を描くことを通して、一生追求していきたいと願った。

 1985年4月、寺小屋学園がかかげた理想の松明を、さらに大きく燃やす学校が創立する。それが「自由の森学園」中学校・高校だった。大人たちが、この「生徒に点数をつけない学校」をつくったことで、寺小屋学園は役割を終え、閉じる。そして寺小屋学園で学んだ私たち一人一人は、自分のやりたいことを見いだしていく。
 27才の私は、「壁画家」の道を選び、めざす理想に向かって、歩み始めた。

自由の森学園全景 自由の森学園1F壁画制作中
(次回に続く)

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松井エイコ(壁画家)

1957年
1982年
1983年




1989年
1994年
1997年
2002年〜
2006年
2007年〜

東京に生まれる。
武蔵野美術大学油絵科卒業。
壁画家として出発。
公共施設を中心に「人間」をテーマとする壁画、モニュメント、
ステンドグラス、レリーフ、緞帳、を創作。
ガラス、金属、陶板、織物、タイル等、多様な素材を使用。
全国各地で壁画展開催(20回)
中国北京国立中央美術学院にて個展開催(中国主催)
国際モザイク展出品
建築家倶楽部主催「松井エイコ壁画の世界展とフォーラム」開催
フランス、ベトナムなどで講師をつとめ、日本各地で講演活動
ドイツにて講演、
アメリカにて病院の壁画プロジェクトに取り組む。

主な作品
北海道士別市ふれあいの道公園、沖縄くすぬち平和文化館、埼玉県蕨市民会館
東京都三鷹市高齢者センター、新潟県与板町立与板中学校、茨城県水戸市斎場
岡山市西大寺福祉センター、茨城県農業総合センター、静岡県富士市・幼稚園
常磐大学、大阪産業創造館、愛媛県松山市・幼稚園、北海道中富良野保育園
京都・立命館小学校、等の壁画やモニュメント他、130余作。

著書 「都市環境デザインへの提言」(日刊建設工業新聞社刊・共著)、エッセイ多数、
    童心社刊・紙芝居「二度と」「かずとかたちのファンタジー全5巻」

日本建築美術工芸協会会員、建築家倶楽部会員、士別市ふるさと大使


 松井エイコ写真・加藤嘉六(かとうかろく)