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極端に外出を嫌う不健康な日常に後ろめたさを感じるわけでもないが、時々、気まぐれに散歩に出る。現在、住んでいる家は鎌倉の山と海にはさまれた場所にあり、主に海側の由比ケ浜を歩くことが多いのだが、稀に山に向かうことがある。
家から長谷通りに出て大仏方面に向かう。大仏のある高徳寺を通過して5分程行くと新大仏坂トンネルが見えてきて、その手前に裏大仏ハイキングコースのゴールがある。急な山の斜面の階段を情けないほど激しくなる動悸を堪えて登りきると樹々の枝の間から由比ケ浜の海を望むことができる。普段と少々違った筋肉の使い方や別の視点を得ることで頭の中の動き方にも変化があるらしく、貧弱になっていた脳内イメージを蹴散らすように新鮮なイメージが立ち現れる。ここからハイキングコースを源氏山公園に向かって逆行するのだが、山道はけっこう起伏があって運動不足の身体にはそれなりにハードである。
山の中を歩いて、いつも思うのは地を這う樹木の根の形状のグロテスクな美しさである。樹木は長い時間をかけて人の目には見えない速度で静かに動いている。強靭な意志さえ感じる根の執拗なパワーと樹木の怪物的な存在感に威圧されて怖けづく。忙しない人の一生をみすかされたような気にもなる。
さらにしばらく歩いて、もうすぐ源氏山公園というあたりに少し谷になっている妙に舞台めいた空間が現れる。ひんやりとした空気が流れて立毛筋を刺激する。遠くから幽かに騒めく音が聞こえてきて、焦点の定まらなくなってきた目であたりを見回すと武者の亡霊の群が、白拍子を囲んで夜宴に興じている光景がありありと見えてくる。それはまるで「雨月物語」の仏法僧の一場面のようである。 |
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亡霊と戯れるというイメージは頻繁に脳裏に現れるのでよく絵にする。それがどんな意味を持っているのか生真面目に分析したことはないが、とにかく、くり返しやってくる。時空を超えた生と死のやりとりといった感じで、なにやら性的なものと結びついている。大抵、死の側の存在の方が生の側を攻め立てるパターンになるのだが、それは死の側が死としては出来損ないの迷える存在で、その者が自身の満たされない透き間を埋めようと焦っている体である。不完全なものも醜いようで美しい。どこまでも死から遠ざかって見えた美しい肉体の少年少女には死の影が宿り、より美しく見えるという思い込みのままに描く。 |
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真夜中、仕事に倦きて、ふと窓から外を窺うことがある。黒々とした山のシルエットが息づいているように浮かび上がって見える。
山の中に想念を飛ばして、けものや鳥や虫の気配を確かめようと試みる。さちに鬼火のちらつく亡者の夜宴へ念を飛ばす。日常は忘れていても確かにこの場所はここに在り、夜々、怪しげなものたちが集っては宴に興じている。その古風で優雅な狂乱を思い、妙に気持ちが高揚する。 |
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闇の中、武者の生首がひゅうひゅう飛びまわっているだろうと恐る恐るベランダに出てみれば、頭上に月が皓々として、床にはくっきりと影法師ができている。それはそれで魅惑的だったりする。
安易な構図に陥る危険を冒しながら、あえて、しばしば画中に月を描き込む。怪しい月の光に幻惑されてというわけではないが、何故か無性に月を描きたくなることがある。ほとんどが満月であることを思えば、あるいは円という形に反応しているのかもしれない。同様にそれは闇を描くのは実は黒を使用したいのでは、というのに似ている。しかしながらこれは切り離して考えても仕方のないことでどちらでもあるということだろう。
月夜でも闇夜でも亡霊は容赦なく画中に出現する。最初にもやもやとした不定形の固まりが湧き出るような感じがあって、そのうち鉛筆の先をクネクネ動かしていると増殖的に細部の形が現れ出てくる。描いている最中、意識は絵の内容からは離れがちで、手は勝手に作業している感覚になる。頭の中では過去の記憶を辿りながら取留めのない妄想に浸っていることが多い。その妄想がさらに次の作品の契機となる。表現される世界は、その都度、出会うイメージによって変容していくので先の展開は読みにくい。妄想でも夢でも幻覚でも出会いに替わりないので現実と同じように考えている。 |
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