高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印


文人閑居して文字に遊ぶ
第8回
綿貫明恆(雑学者)
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訓は漢音、呉音、唐音、慣用音の區別もなく、たとえば号・號の訓の區別もないというデタラメさ。蘊蓄は、たとえば圍に「圍ひ」は遊女の位の名([圍ひ女郎])。上から順に、大夫、天神、圍ひ……。いいかげんにしてくれよ、こんなこと知って何になる。それに山中共古が國學者とは、ちっとも知らなかったなあ。ついでにいうと、圍、國の囗(國構え)、この人は必ず第一、二劃、第一、四劃つまり左上と左下とを離して隙間を作る。これでは折角圍んでも逃げられてしまうし、國の隙間から北鮮や中共の不審船に入り込まれてしまうではないか。この人、つかなければいけない筆劃をあちこち離してバラバラにしている。こういうダメな所をさがすのも、この本の賣りの「樂しめて」の一つなのかしら。
の「蘊蓄」には、もっとその字に關すること、たとえば月は月でも(つき)、月(肉月)、(舟月)の異、声・画・医・価・条・虫・糸・旧等は原字の主要な一部分を取った者である(旧は臼の異體)とか、學・勞・擧・嚴・・嬰等の上部は全く異なるのに、新字體でになるのはなぜか、実・会・写・尺等は草書の形を楷書に直した為に出来たとか、書くべきことはいくらでもあろう。ただ「省略形による」「俗字による」というだけでは、近頃流行の言葉で言えば「説明責任を果たしていない」。
もそも舊漢字なる者の字體には相互に支吾する者が少なくない。蠶と濳との相異、要と腰、覃と潭・譚、に從う堂、賞などはいったいどうすりゃいいのだ。そんな違いを一一字ごとに覺えろとでもいうのか。
字の蘊蓄に(もっとも手書きするときはもちろん略字でいい。「龜」だの「鹽」だの「蠅」だのをこのまま書くまでもあるまい。「肅」も同じ。)というのは、どういうことかいな。舊漢字を書こうというのがこの本の主旨で、そのためのナゾリ書き用の手本までつけておきながら、舊字を書くことはない、略字でよいとは。本氣で言っているなら、まさしく正氣ではない。フザケルのもいいかげんにしておけよ。
もそも、字典體の舊字を書こうというのがマトモではない。楷書を書けばよいのである。楷書を識りなさい。楷書の楷とは法也、式也、模也と唐の張懷が言っている通りなのだから。
當はこういう本を作るならこのようにすべしという見本を作ってみせるつもりだったが、そこまでゆかない中に紙數がつきたは殘念。
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