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書くことはいくらでもあるけれども、さて何を書こうかとなると、あれやこれやと考えあぐねてしまう。そのようなときには、得てして「飛んで火に入る夏の蟲」が出てくるものである。そんな者がうまく出てきた。 文春新書「舊漢字」、著者は萩野貞樹。これこそ正札懸値無しの「愚書駄本」の見本。どこぞの書店で見かけたら、ちょっと手に取って、どのページでもよいから、ざっと眼を通して御覧じろ。あまりのバカバカシサ、クダラナサに呆れ返ること必定。御代は見てのお歸りなどとは以ての外。間違ってもお求めなさるまいぞ。とは言うものの、私は買ってしまった。この駄文を書くために。 さてそれでは、その愚書駄本たる所以はいかに。本書の副題に「書いて、覺えて、樂しめて」といい、各ページに手書きの舊字體を擧げているのだが、これがまあなんと、粗雜拙劣俗惡言わん方無き代物。ご丁寧に筆順となぞり書き様の薄く印刷した字を五つ載せているが、こんな字を習わせようとは、少しは恥と分際とを知れ。艸冠()と羊頭()とは異なると力説するが、例として擧げた藝ととはともにに從っている。まあ、文藝春秋という雜誌の題字の藝字は、長い間艸冠ではなく、羊頭に從って作っていたが、今から三、四十年前、篆刻家の松丸東魚先生の處に當時の文春の副編集長が出入りしていたので、この人に強く申入れ、正しく艸冠に直させたということ、今の文春の編集部でも知っている人は殆んどいるまいから、ちょっと書いておく。ウソと思ったら當の御本人、高齡ながらまだ御存命のはずだから、聞いてごらん。だからこの本、藝の艸冠を羊頭に書いたのは昔にもどしたつもりかしら。
次にその字を用いた例文を擧げるが、これがあらずもがなのバカバカシイもの。こんなものでも載せなければ紙面を埋められないのである。次に活字で舊字體と新字體とを擧げ、その音と訓とを示すが、これが全くのお座なり。その次に「語」として、その字を含む語をいくつか擧げるが、これまた紙面を埋めるための餘計なことで、何の役にも立たない。また次に「蘊蓄」と稱して役にも立たぬつまらぬことをいう。とても「蘊蓄」とはいえない。せいぜい「ウンチク」である。
この人、活字の舊字體が正しい字形だと思い込んでいるようで、楷書と活字との違いがわかっていない。簡單にいうと、楷書は書寫體であり、活字は印刷體である。それ故、楷書の字體には独自の體系があり、結字の美觀、運筆の順利、個人の筆癖等により、同一字であっても小異があるのが當然である。それに對して活字は一字一體であり、小異有ることさえ許容しない。だから書寫する場合、その字體は活字に拘束される必要はなく、その活字字體の基準となるのは、たかだか三、四百年前の康煕字典であるのに、楷書はその發生以来一千七百年の間に歴代の名家により、その典型が確立されたのである。だから先づは楷書を識ることが必要なのである。 |
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