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≪前頁より続き≫ 後漢書蔡茂傳に、蔡茂が、太極殿上に坐していると、殿上に三つの穂を一束にした禾があったので、走りよってそれを取ったが、手の中につかんだのは、そのまん中の穂だけであり、それもまたいつの間にか失なってしまった夢を見た。このことを郭賀に問うたところ、「大きな宮殿は官府のしるしであり、その殿上に禾があるのは官職が昇進し禄を得ることを表わし、そのまん中の穂を得たとは、中台の位であり、禾を失ったとは禾失の二字を合わせれば秩の字になるので、升官して禄秩を得ることになりましょう」と解した。果たして半月後にその通りになったという。
前讖の劉邦の夢はちと時代が古過ぎるので、後漢の光武帝のことであったとか、後世の附會であるとかいわれているが、とにかく後漢にこのようなことがおこり、その末から三國にかけて盛んとなり、特に蜀の占夢の趙直という者は、夢占いに専らこの文字に置き換えて解釋する方法を用いて奇中しており、その例は三國志注にいくつも見られる。 |
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後漢末から三國にはこの文字の離合によって預言、占卜、嘲謔、遊戯等のことが多く行われ、それが正史に記載されることも稀ではなかった。この時期の例として逸すべからざる者は、千里草と絶妙好辭である。
後漢の末年、董卓が洛陽に入り暴虐の限りを盡くした。そこで京都に童謠が廣まった。童謠といっても、夕焼け小焼けの赤トンボなどの類ではない。社會情勢が不安になると、誰が作ったのか、どういう意味なのかよくわからないなんとなく意味ありげな歌を子供たちがうたい出すのである。實は作者がひそかに子供たちにうたわせて廣めるわけだが、まあそんなことはどうでもよい。そして事件がおこると、ああ、あの歌はこのことを言っていたのか、と妙に納得してしまうというしかけになっている。
ここには後漢書五行志の本文をそのまま書き下し文にして引いておこう。「獻帝踐祚の初、京都の童謠に曰く、千里の草、何ぞ青青たる。十日卜するに、生きるを得ざらんと。案ずるに、千里草は董と為し、十日卜は、卓と為す。凡そ別字の體は、皆な上より起り、左右に離合す。下より端を發する者有る無きなり。今二字此くの如き者は、天意に卓は下よりして上を摩し、臣を以て上を陵ぐと曰ふが若きなり」という。何青青は、大した羽振りだなあ。不得生は、そう長いことはないさ。ここで特に注意すべきは、別字つまり文字を分解するのは、上から下へ、左から右へというのがきまりであるとしていることである。當時すでにそのような慣習が定着していたということは、別字ということが相當に廣く行われていたことを示しており、今日に傳わるそれらの例は、ほぼみなその通りに行われているのである。 |
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