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≪前頁より続き≫
謝石の話をもう一つ二つ。なにしろ測字の術に於ける古今第一の人とされているくらいだもの。
謝石がその故郷の蜀に歸った時、文覺という人が「乃」の字を書いて問うた。乃の字ならば拆しようがあるまいから、これで謝石をちとやりこめてくれんと考えたのである。ところが、石もサル者ヒッカク者。及の字とするにはちと足りない。だからお前さん一生科擧の試験には及第しないよ、と見事な返り討ちにされてしまった。
ある時、道で出會った人から、妻が産月(うみづき)になっているのにまだ生まれないと、日の字を地上に書いて問われた。石が答えていうには、明日男の子が生まれるだろう(明出地上、得男矣)と。日は明であり陽である。これを地上に書いたとは、明は明日、出地上は生まれる。陽であるから男子というわけである。まあなんともバカバカシイ。それでもあたったというから、大したものである。それほどの大先生であっても、自らの先行きはわからなかった、占いというのは、そんなものさ。
謝石は店の中に千字を書いた牌(ふだ)を掲げておき、文字を識らない者には、その中の任意の字を指ささせ、それによって占ったという。手廣く商賣をするためには、それなりの工夫も必要なのである。 |
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宋の建炎の間に周生という、これまた相字を善くする者がいた。シナでは姓のみ知れ、名の知れない者には、姓の下に生をつけて呼ぶことがある。生は我が方の「〜さん」にあたると思えばよかろう。宋の朝廷が南遷して杭州に至った時、金人の襲來を疑い恐れ、人心は全く落ちつきがなかった。時の執政が周生を呼び、たまたま杭の字を書いて示したところ、周生は「悪い知らせがありましょう。杭の字を拆して、右邊の一點を木の上に配すると兀朮となりますからのう」と言った、果たして旬日を経ずして兀朮が南侵してきた。趙鼎と秦檜とが廟謨協わず、兩者共に引退せんとして退字を書き周に示した。周は趙必ず去り、秦必ず留まらんと相した。日は君の象であり、趙の書いた退字は人が日を去ること遠く、秦の書いた人字は日の下に密附し、字の左筆が下に連なり、しかも人字の左筆が斜にこれを貫いているから、引退しようとしてもできまいと言った。文字占いもただ字を拆開するだけではなく、筆畫の肥痩、長短、大小、疎密、遠近、交錯、さらには墨色の濃淡にまでかかわってくるのであるから、そうそう簡単なものではない。退休したら、どこかの驛前で文字占いの店でもやろうかと思っていたのだが、そうたやすくはなさそうだ。 |
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