高橋美江 絵地図師・散歩屋
窪島誠一郎「ある若い画家への手紙」−信州の二つの美術館から−
もぐら庵の一期一印


文人閑居して文字に遊ぶ
第5回
綿貫明恆(雑学者)
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 夢趙直の話はまだあるが、一先づ置いて、次の話に移ろう。晉書王濬傳に「濬、夜三刀を臥屋の梁上に夢み、須臾にして又一刀を益す。濬驚き覺め、意に甚だ之を惡む。主簿の李毅、再拜して曰く、三刀は州字と爲す、又一を益す者は、明府其れ益州に臨まんか」という。言の如く王濬は後に益州刺史になったという。これより「三刀爲州」という語が廣く知られるようになり、我が邦に於てはこれをそのままに解し、刀字を品字形に配した、またそれを省したを州の字として用いるようになった。その最早の例はまだ確めていないが、江戸時代には極めて廣く用いられ、今でも昔の街道脇の道里標や、廣重の版畫の東海道五十三次の題字などによく見かける。ただしこれは我が邦特有の者であるらしく、シナには州をに作った例を見出だせないでいる。もし御存知の方があれば、ぜひお教えください。それは我が邦人は三刀爲州の刀をそのまま「刀」と誤解したため、わざわざの字を作ってしまったのであろう。シナ人は誤解しなかったのである。これは州字の隷書・楷書の字形を見れば一目了然である(圖版二參照)。
 はつまり立刀なのである。立刀を横に三つ並べた形、それが州字であり、隷楷ともにその形をしているから、わざわざのような字を作るまでもなかった。念の爲に一言しておくならば、の字はもとからあり、廣韻に良脂切、音、姓也という。
 もあれ、このような拆字の語の解釋の誤りから新たな異體字ができてしまうこともあるのだから、なんともはや面倒な者だ。
 お唐の李遠の送友人入蜀に「不知煙雨夜、何處夢刀州」の句がある。刀州は不熟な語であるが、三刀爲州、又益一刀を典故とした者である。
*著者の意向により、中国のことを“シナ”と表記しています。
《圖二》漢 曹全碑

唐 道因法師碑

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