場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか

〈第十七章 いずこへ〉3
 玄侑宗久『光の山』/津島佑子『ヤマネコ・ドーム』
前田速夫


  場所が汚染される 

 東日本大震災の直後、連続して起きた、チェルノブイリ以上の大惨事と日本国内を震撼させたフクシマ原子力発電所の放射能事故を扱った作品は、直後、川上弘美が旧作を一部書き換えた『神様2011』や、高橋源一郎の『恋する原発』、伊藤せいこうの『想像ラジオ』などがありますが、ここでは福島県三春の古刹の住職でもある玄侑宗久が、自身の体験や見聞をもとに構想した『光の山』(新潮文庫)を見てみましょう。
 同書に収録された短編は、いずれも被災地で放射能と共に生きざるを得ない人々の苦悩が描かれますが、表題作は先代の住職が捨て場がなくて困っていた除染で出た土や廃棄物を持ち帰って、自分の寺の境内に築いた高さ二十メートルほどの山を指しています。
 事故から三十年後。息子の老住職がホーシャノーツアーに参加した観光客を、先代住職を荼毘にふしたあと、光るようになった名所に案内します。

  《おお、ご覧なさい。この世のものとは思えん美しさじゃ。透明
 で、清らかで、気高くて、しかも毒々しい。これが瑠璃色というも
 んなら、阿弥陀さんじゃなくて薬師如来のご来迎かもしれんな。お
 おお、土産物屋のネオンまで空に映って、これはもう当方のお浄土
 じゃな。
  はい。一列に並んでワシのあとに従いてきてくだされ。細かいこ
 とはスタッフの指示に従ってな。大丈夫、大丈夫。どなたもおなじ
 ように浴びられます。一回り八十ミリシーベルトのコースじゃ。ほ
 らほら、勝手に先に行って二回りするのは反則というもんじゃ。簡
 便してくだされ。まだ白装束に着換えてない人も慌てなくて大丈
 夫。はい、ではゆっくり出発しますぞ。六根清浄、お山は快晴、六
 根清浄、お山は光る……。》

 これを、ブラックユーモアなどといって笑う人はいないでしょう。先代住職の慈悲も、被災者に対する鎮魂も、下手をするとこうなりかねません。ここには、当時、自宅の広大な境内が壊滅し、檀家の受けた苦しみを目の当たりにした作者の怒りがこもっています。
 津島佑子の長編『ヤマネコ・ドーム』(講談社文芸文庫)にも、放射能事故の影響は露わです。主要な登場人物は、ヨン子(依子)、ミッチ(道夫)、カズ(和夫)の三人。戦後、施設で育てられたGIベイビーたちの多くは、アメリカに養子としてもらわれていきましたが、ミッチとカズは、ヨン子の母の従姉(ママ)に引き取られて日本に残ったのでした。
 「ピシ ピシ ピシ ピシ」。作品の冒頭では、ヒメシャラの木にびっしりとたかったコガネムシがエメラルド色に背を光らせながら一心に葉をはむ音が響いています。

  《……虫たちの時間と、人間たちの止まってしまった時間とがぶ
 つかり合う音。放射能を浴び、それが刺激となって異常発生した虫
 たちは、自分たちの食欲で時間を食いつぶしてく。枝ごとにひしめ
 き合い、居場所を失い、地面に落ちてしまう虫もいて、遠くから見
 れば、でこぼこしたエメラルド色の実が風に揺れ動くようにしか見
 えないのかもしれない。
  そう、あの場所にも風が吹いていた。ヨン子は思いだす。湿気を
 含んだ風がのろのろと吹き流れ、枝が動き、そのため視界が濃淡の
 緑色にちらついて、だれがどこの茂みに隠れているのか、すぐには
 見分けられなかった。カズが緑の影に包まれて、しゃがんでいる。
 八歳のカズ。同じ年齢で、足がまだ丈夫だったミッチも、カズと同
 じ茂みに身をひそめ、風の流れをとがった鼻さきに感じる。緑の向
 こうに、白くひかる水のひろがりが見える。風が吹くたび、水面に
 小さな波が立つ。エメラルド・グリーンのひとしずくがかぜに吹か
 れ、その水面に落ちる。水の光と緑の光が揺れて、混ざり合う。暗
 い緑色にひかる虫はしばらく水面でくるくる回る。やがてそれは、
 うつ伏せに浮かぶ女の子の体に変わっていく。オレンジ色のスカー
 トが水の動きになびき、髪の毛がふわふわ波打つ。》

 物語は時間が前後して、語り手もそのつど変わり、しかも内心のモノローグに終始しますから、状況を把握するまでにしばらく辛抱がいりますが、読み進めていくと、作者がじつに丹念に物語を組み立てていることが分かります。
 二〇一一年五月のことです。海外にいたミッチは、東日本大震災のニュースを見て、日本に戻ってきます。「日本列島なんかこの世から消えてしまえ、日本は世界で、いちばん、いやな国だ」と思っていたのに。
 降り立った日本は、放射能の霧でなにもかもがゆがんで見えます。この放射能に汚染された日本のイメージが、解けない疑問をかかえたまま六十代を迎えたミッチ、カズ、そしてヨン子の過ごしてきた日本の戦後と重なります。

  《ほんとに前代未聞の津波で、たいへんな被害だったんですか
 ら、いえ、東京に津波は来なかったですけど、それだけじゃなく
 て、原発、わかります? 原子力発電所のことですよ、福島県にあ
 る原発が四つも爆発して、放射能をまき散らしたんです、それでた
 くさんのひとたちが大急ぎで避難しろと言われて、酪農家は牛を置
 き去りにしなければならなくて、ええ、もうこれじゃ生きていけな
 いって悲観して、自殺してしまった方もいらっしゃるんですよ、放
 射能はねえ、とてもこわいものらしいんですよ、放射能も地震もな
 いところへ、わたしも逃げだしたいけど、責任上、こうしてわたし
 が担当しているみなさんを投げ捨てるわけにはいきませんし、みな
 さん、わたしたちがいなくなったら生きていけないですものねえ、
 それにしても、こんなことがこの日本で起こるなんて……》

 恐ろしくて逃げたくて忘れたいもの、それはミッチとカズとヨン子が、八歳と七歳のときに目撃した記憶、ター坊(民也)が池のそばでオレンジ色のスカートをはいて立っていたミキちゃんに近づき、直後うつぶせに水に浮んだミキちゃんの死体でした。その後、十年おきにオレンジ色を身につけた女性の殺人事件が起き、五十一歳のとき、ひどく貧乏な母子家庭に育ったター坊は、公園の木に首をくくって自殺する。
 物語の最後は、最初のミッチ帰還時に戻ります。ミッチは、不明だったター坊の母親の住まいを見つけ出して、懸命に説得します。

  《ター坊のお母さん、ここから逃げましょう、おれたちといっ
 しょに。
  ミッチは声が出ないまま、煮こごりの闇に語りかける。ふたつ
 の眼が、ふたたびひかる。
  あんたたち、……あの子はあんたたちを待っていた。でももう、
 遅い。
  そう、それでも、ここから逃げましょう。どのみち、この崩れか
 けたアパートに住みつづけることはできない。
  ター坊を置いて?
  ター坊ももちろん、いっしょに。
  どこへ?
  とりあえずの場所は決めてあるけど、それからあとのことはわか
 りません。
  世界はもう消えたのに。
  けれどまだ、あなたも、おれたちも消えてない。まだ、こうして
 生きている。残された時間を、残された場所で、いっしょに過ごさ
 せてください。気味のわるいほどふくらんだ、怪物のようなこの東
 京は、もういいかげん見捨てましょう。だいじょうぶ、いろいろな
 手つづきはあとからでもちゃんとできます。
  なにもかも終わってもう、死んだも同然なのに。
  でも生きている、時間が止まったこの世界で。
  ここで、私は死にたい。死なせてほしい。
  だけど時間が止まっていたら、死ぬこともできない。死ぬために
 も、まだ時間が動いているところに移らないと。それはおれたちも
 同じで、もうすぐ死ぬにしても、ちゃんと死にたい。ター坊の友だ
 ちとしてお願いします。
  ター坊の友だち?
  そう、ター坊の友だち……。
  ミッチはうなずく。うしろめたさと恥ずかしさに身をすくめ
 て。》

 直後、地震が襲い、こわばったままのヨン子の顔を見やってから、もう一度ミッチはター坊のお母さんに語りかけ、わずかにうなずくター坊のお母さんの手を引いて、ヨン子と共に外に出ます。放射能の煮こごりが実際には、地に、石に、家々にこびりつき、風や雨に流され、途方もなく長い時間をかけて移ろいつづけ、草木も、鳥獣虫魚、そして人間たちにも静かで残酷な痛みを与え、その痛みから逃れることはできないのと同じように、部屋の外に出ても、どれほど遠い場所に逃げても、のがれることはできないというのに。
 作者の津島佑子は、本作のあと、『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』『半減期を祝って』『狩りの時代』と書き継いで、二〇一六年二月、病没しました。太宰治の娘と言われるのをひどく嫌い、『笑いオオカミ』の連載が「新潮」ではじまるとき、私がその紹介文で太宰と関連づけて触れたとき、猛烈な抗議を受けたことが、痛恨の念と共に思い出されます。
 若くして文壇に登場し、一作ごとにめきめき腕を上げ、中上健次と共に、同時代の現代日本文学を力強く牽引した双璧でした。もはや過去形で語らねばならないのが辛いのですが、代表作の『火の山』がそうであったように、彼女も何より土地の記憶を大切にして、そこから物語を紡ぎだしていたことは、銘記すべきでしょう。


著者略歴
前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間(トポス)を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。