場所は記憶する――私たちはいまどこに居て、どこへ往くのか
〈第十六章 迷路〉2
安部公房『燃えつきた地図』
前田速夫
場所が消える

次は『燃えつきた地図』(新潮文庫)です。扉裏のエピグラフ(題辞)に、こうあります。
《都会――閉ざされた無限。けっして
迷うことのない迷路。すべての区画に、
そっくり同じ番地がふられた、君だけ
の地図。
だから君は、道を失っても、迷う
ことは出来ないのだ。》
「閉ざされた無限」「迷うことのない迷路」と、例によって、安部公房得意の逆説的な表現で、一見難解ですが、ただちにこの小説の雰囲気は伝わってきます。左頁は、四方を罫で囲まれた調査依頼書です。『砂の女』のラスト、「失踪に関する届出の催告」「審判」という家庭裁判所の無機的な文書と同じ形式で、この小説が『砂の女』とセットになっていることが分かります。
小説の主人公は、失踪した根室という名のサラリーマンの調査を依頼された興信所の所員。というと、探偵小説みたいで、事実、そうした追跡と謎解きの要素が主で、サスペンスの手法もふんだんに使われていますが、読み進むにつれて、プロットやストーリーの面白さだけではないことに、嫌でも気づかされます。
興信所の所員は「ぼく」というだけで、名前が与えられていません。失踪した男の妻は団地に住んでいて、手掛かりは、マッチの箱と顔写真だけです。追跡するにつれて、その手掛かりも怪しくなる。背後には、どうやら失踪した男の弟がいるようなのですが、その弟は犯罪組織の人間に殺されてしまう。葬式に行ってわかったのは、弟はその犯罪組織に属し、同性愛グループのマネジャーをしていて、依頼人、つまり姉とは近親相姦の間柄だったということなどです。
けれども、こうした悪夢のような事柄も、この小説のプロットの上では、たいした意味を持ちません。というのは、失踪した男を追跡しているはずの主人公が、いつのまにか自分も、失踪した男と同じ追われる身となっていることに気づかされてゆくことに、この小説の重点が移っていくからで、最後はこの主人公が失踪するところで終ります。
ポイントになる箇所をいくつか読んでみます。はじめは、「ぼく」が依頼人の住む団地を訪れる場面。「そっくり同じ人生の整理棚」という表現に、「ぼく」も例外ではない、画一化した現代人の存在感の無さが含意されています。団地というのも、この作品が書かれた昭和四十年当時の新しいトポスの一つでした。続いて、失踪した男の妻と会って、団地の窓から見下ろしているところ。
《こうして、上から見下ろしていると、人間が歩く動物だという
ことがよく分る。歩くというより、引力と闘いながら、内臓を入れ
た重い肉の袋を、せっせと運搬している感じだ。誰もが帰ってく
る。出掛けたところへ、戻ってくる。戻ってくるために、出掛けて
行く。戻ってくることが、目的のように、厚いわが家の壁を、さら
に厚くて丈夫なものにするために、その壁の材料を仕入れに出掛け
て行く。
だが、ときたま、出掛けたっきり、戻ってこない人間もいて…
…》
「出掛けたっきり、戻ってこない人間もいて……」というのが、伏線です。失踪した男はもちろん、「ぼく」もその通りになってしまうからです。このあと、失踪人の妻との会話で、「よして下さいよ、行方不明をさがしている人間が、また行方不明なんていうんじゃ、まるで鼬ごっこじゃないですか」というのが、それですね。
ずっと飛んで、主人公の「ぼく」が別居中の妻の仕事場である洋裁店を訪ね、妻と会話する場面。調査中の「彼」が、自分の影とぴったり重なったような気がしたと、初めて意識されるところで、「分ったわ、あなたは家出をしたのよ、逃げ出したのよ。」と妻に言われてしまう。
《「そうよ、逃げ出したんだと思うわ。」
妻は満足そうにうなずき、そっとぼくを伺う。ぼくの同意さえ得
られれば、それで一切が解決するとでもいうふうに……
「何から? 君からかい?」
「私からじゃないわよ。」強く首を左右に振り、「人生からよ…
…駆け引きだとか、綱渡りの緊張だとか、救命ブイの取りっこだと
か、そんな際限のない競争から……そうでしょう……私のことなん
か、要するに、口実だったのよ……」》
そして、失踪人の追跡が徒労に終わって、再びはじめの団地に戻ってきた場面。失踪した男が最後に目撃されたというあたりです。ここに「地図」という言葉が出てくるのに、注意してください。
《もし、今ここに立っているのが、ぼくではなくて、「彼」だと
したら……
ら……捨て去ったわが家の窓を見上げて、なにを思うだろう? ぼ
くは「彼」の気持になってみようと努めるのだが、どうも
ない。(中略)
「彼」はやはり「彼」自身でなければならないのだ。他の誰かで
置き替えてすませられるものではない。「彼」……どんな祭りへの
期待にも、完全に背を向けてしまった、この人生の整理棚から、あ
えて脱出をこころみた「彼」……もしかしたら、決して実現される
ことのない、永遠の祝祭日に向って、旅立つつもりだったのではあ
るまいか。(中略)
いま「彼」はここに立ち……失ったものと、まだ手に入れていな
い希望の重さとを、
「彼」を求めて、手探りする……いや駄目だ……ぼくが探ってい
る、この暗闇は、けっきょくぼく自身の内臓にすぎないのだ……ぼ
くの脳味噌に映し出された、ぼく自身の地図……立っているのは、
ぼく自身であって、「彼」ではない……》
小説のラストは、公衆電話のボックスです。これも、都会の小さなトポスでしょう。事件の鍵を握っているらしい女に助けを求める電話をし、受話器を置くと、隅にまるめた新聞紙があり、下から黒く乾いた大便の端がのぞいているのに気がつく。公衆電話の中で用を足さなければならないほど、大便を耐えつづけなければならなかった男がいたのです。
《この、都会という無限の迷路の中で、数えきれないほど存在し
ているはずの便器の中の、わずか一つの利用さえも許されなかっ
た、孤独な男……その男が、公衆電話のボックスの中に、かがみ込
んでいる姿勢を想像すると、ぼくは恐ろしくなってしまったのだ。
むろんその男が、ぼくのように、帰って行く場所を見失ってし
まった人間だとは限らない。見失ったという自覚さえない、根っか
らの浮浪者だったのかもしれない。だが、どちらにしたところで、
大差はないのだ。医者なら、ぼくが失ったのは、カーブの向うなど
ではなく、記憶なのだと主張したがることだろう。誰がそんなこと
を信用するものか。誰だって、どんな健康な人間だって、自分の
知っている場所以外のことなど、知っているわけがないのだ。誰
だって、今のぼくと同じように、狭い既知の世界に閉じ込められて
いることに変りはないのだ。坂のカーブの手前、地下鉄の駅、コー
ヒー店、その三角形はなるほど狭い。狭すぎる。しかし、この三角
形が、あと十倍ひろがったところで、それがどうしたというのだ。
三角形が、十角形になったところで、
もし、その十角形が、決して開かれた無限に通じる地図ではない
ことを、自覚したとしたら……救助を求める電話に応じて、やって
来る、救いの主が、自分の地図を省略だらけの略図にすぎないと自
覚させる、地図の外からの使いだったとしたら……その人間もま
た、存在しながら存在しない、あのカーブの向うを
まったことになるのだ。》
やがて現れたのは、はたして失踪人の唯一の遺留品であるマッチ箱、コーヒー店《つばき》の女でした。〈ぼく〉は隠れ、彼女があきらめて去ると、彼女とは反対の方向に歩きだします。
私は、この『燃えつきた地図』を、タイトルが示しているように、現代におけるトポスの消滅というふうに読みました。『燃えつきた地図』とは、単に主人公一人の「地図」ではありません。ここでは登場する人物と同じ数の「地図」が燃えつきています。そして、その一人一人がみな自己を失っているのです。
- 著者略歴
- 前田速夫(まえだ・はやお)
一九四四年、福井県生まれ。東京大学文学部英米文学科卒業。一九六八年、新潮社入社。一九九五年から二〇〇三年まで文芸誌「新潮」の編集長を務める。一九八七年に白山信仰などの研究を目的に「白山の会」を結成。著書に『異界歴程』『余多歩き 菊池山哉の人と学問』(読売文学賞受賞)、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』『古典遊歴 見失われた異空間 を尋ねて』『「新しき村」の百年 〈愚者の園〉の真実』『海人族の古代史』『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』『老年の読書』など。
本連載と同時進行で「三田文学」に『対比列伝 作家の仕事場』を連載中。