皿やしき於菊の霊
皿やしき於菊の霊

 有名すぎる物語というのはそれを扱わんとする作家にとっては困った代物で、なにぶん歴々たる先達が見事な解釈を施しているから、後続はみな拙筆の恥を忍ばねばならない。「皿屋敷」に至っては、たとえば『修禅寺物語』や『半七捕物帳』の岡本綺堂が戯曲化し、それまでは愚劣な大悪としてばかり語られていた青山主膳を主役に据えて、お菊との身分違いの悲恋を描くというアクロバットを披露している。
 芳年が描いたお菊の姿は恨めしげに手を隠しているから、徳川時代に成立した因縁と怪奇の物語「番町皿屋敷」に準拠していると思しい。主膳による寵愛ぶりに嫉妬する奥方やその腹心によって、青山家が徳川家から拝領した十枚揃いの皿の一枚を割られた、もしくは隠されてしまった下女お菊は、組み皿と同じ目に遭わされる――十のものが九にされた醜さを思い知れとばかり、主膳によって右手の中指を断ち落されてしまう。このくだりが最も怖い。
 ところが同場面は、先行して浄瑠璃となっていた「播州皿屋敷」に付与された尾鰭である。こちらのお菊は主家乘っ取りの陰謀をたまたま耳にしてしまう下女で、口封じのために管理している皿の一枚を隠され、その紛失の咎で拷問のうえ斬り捨てられる。「番町」のお菊は井戸に身投げをするが、「播州」のお菊は殺されたあと遺体として井戸に投げ込まれ、そこが解せないといえば解せない。冤罪を演出してまで斬ったのなら、遺体を邸内の庭に隠す必要などない。
 ただし「播州」には、後年、蠱惑的なエピローグが付与される。浄瑠璃『播州皿屋敷』初演の寛保元(一七四一)年から五十年余りを経て、同地に大量発生した虫がいた。長く黒い翅で優雅に宙を舞う、麝香揚羽【じゃこうあげは】である。これが播州の人々には昇天せんとしているお菊に見えた。なぜならこの蝶の蛹はたくさんの花弁状の突起を持ち、色も黄色かより赤みがかっており、そのうえ上部が大きく反り返っているから、風変わりな花のようにも、また後ろ手に縛られて悶絶しかけている女性のようにも……たぶん見える。後ろ手に縛られて悶絶しかけている女性というのをあまり見たことがないので断言はできないのだが、当時の識者たちがそう見立てたのだからきっと似ているのだ。よって麝香揚羽の蛹はお菊虫と呼ばれる。
 既存の皿屋敷ものを統合した作品に、徳川時代後期に広まった戯作『播州皿屋敷実録』がある。

 青山鉄山による城主小寺則職【のりもと】の毒殺計画を、必ずしも快く感じていた町坪【ちょうのつぼ】弾四郎ではない。花見の宴に、忠臣を気取る衣笠元信の配下が乗り込み、則職が手にしていた盃の中身を持参した金魚の鉢に注いで毒酒であると立証したとき、どこかしら彼は安堵したのである。鉄山が知らぬ存ぜぬを云い通し、則職もそれを信じてその場は事なきを得たが、やがて元信は則職をいずこかへと隠した。同時に元信も雲隠れしたのだから、彼の采配に違いない。城に、いま城主は居ない。
 それにしても、なぜ暗殺計画が元信に洩れたのか?
 調査を担当していた古株の下女から、間者はやはりお菊であろうと聞かされた弾四郎は、頭を抱えた。同時に「やはり」という胸を締め付けられるような思いにもかられていた。お菊がかつて元信の妾であったことは、誰でも知っている。しかし鉄山はそれを自宅の下女として受け容れた。
 元信とお菊とのあいだに秘かに男女としての仲が続いているのか、それとも危険な役目を命じ命じられるほどの堅固な主従関係が未だふたりを結び付けているのか、いずれにしろ弾四郎にはつらい。なぜなら彼はお菊に恋慕していた。楚々としたふるまいや、面長ですっきりとした横顔、通りすがるときの仄かな香りに接するたび、いつか鉄山に申し出て執り成してもらえないか――嫁に貰えないものかと、胸中を騒がせてきた。
 播州統治にまつわる主義主張の相違から、鉄山と元信の両家老はもとより仲が悪かった。要約するならば、鉄山は「則職ではもう駄目」という考えであり、元信は「それでも主君を立てるべき」だと思い、よって悉く対立して、ともすれば城中で斬り合わんばかりの眼光を発し合ってきた。
 元信の妾だった女を娶りたいと云いだした家来に、鉄山はいい顔をするまい。かといって元信に鞍替えするという選択肢は、弾四郎にはなかった。姫路城へ上がれるまでに引き立ててくれた鉄山に後足で砂をかけるなど、武士としての誇りを抛【なげう】つにも等しいし、そのあと元信に「お菊はやらぬ」とでも云われたら、もはや行き場はない。鉄山の手前、そしてお菊の手前、男としてはもはや死ぬしかない。
 鉄山は粗暴な男だが、宿敵の妾だったと知りつつ「衣笠に捨てられた? じゃあうちへ上がれば」とするような懐の深さがある。翻って、もしさっきの報告が事実であれば、元信は小さい。忠臣を気取りながらあの可憐な女を間者として使う――赦しがたい。
 意を決して、鉄山の屋敷の庭にある四阿【あずまや】へとお菊を呼ばせた。庭を眺めながらじりじりと待った。お菊が来た。よくよく見ればあんがいつまらぬ小娘だったという結果すら期待していたというのに、改めて間近にしてみれば、これまで胸中に懐き続けてきたイメージ以上に可憐である。そして、どことなく弾四郎に素っ気ない。心は未だ元信の許にあるのだと察するに、えも云わず胸苦しい。
 訊いた。「お菊、俺が誰かは知ってるよね」
 お菊は頷き、「勿論でございます。お若いにも拘わらず旦那様が厚く信任していらっしゃる、町坪様でございます」
「下女たちのあいだでは評判が悪かろうね。目付きが悪いとか鬱屈してそうとか」
「とんでもありません。むしろ母性本能をくすぐられまくりでございます」
 空疎なやり取りのあと、弾四郎は意を決して、
「本題に入ろう。単刀直入に尋ねる。お菊よ、お前が未だ衣笠様と通じて、拾ってくださった青山様を裏切り、この屋敷でのあれこれに聞き耳を立てては、あちらに報告しているのではないかと云う者がいる。事実かね」
 お菊はあっさりとかぶりを振って、「そんな事実はございません」
 準備していたかのようなその反応で、嘘だと分かった。長い沈黙のあと、いよいよこう切り出してみた。「まあ例えばの話だが……いっそ俺の女にでもなれば、すっかり疑いは晴れ、今より楽な暮しもできようもんだが」
「滅相もございません」
「衣笠様が、忘れられないか」
 お菊は唇を噛んだ。これ以上問い詰めたなら屋敷から逃げ出しかねない。そう弾四郎は思った。
「もういい。仕事に戻りなさい」
 深く頭を下げたのち、お菊は逃げるように四阿から遠ざかっていった。

「間者は分かった?」との鉄山の問いに、
「下女のお菊でしょう」と弾四郎は正直に答えた。駆引きのつもりだった。「処分の程は、ひとつ私にお任せください」
「いいよ」とあっさり応じられた。「煮るなり焼くなり、弾ちゃんの好きにするといい。むしろ死刑。ただし衣笠派がくだくだと文句を云ってこないように、うまく工夫してね」
 弾四郎は調査係だった下女に方策を相談した。この年増がじつに陰険で、
「間者だってことに情況証拠しかないのなら、別件――たとえば管理責任を取らせばいいじゃないですか」とけろりとして云う。「貴重品の管理を任せて、それが失せでもしたらあの娘はお手討ちものですよね。もしそうなれば、町坪様が斬り捨てるなり慰みものになさるなり、自由自在では」
「怖いことを考える女だな」と弾四郎は驚き、かつまたお菊への恋情を見抜かれていたことにも気付いた。
「おほほほほ、伊達にこの屋敷を陰で仕切ってきたわけじゃございません」
 まさか城主則職の暗殺計画も……と思い至った弾四郎だったが、自分が暗殺されると困るので言葉を呑んだ。
「万事、私にお任せください。そうすればあの娘は町坪様の思うがまま、この屋敷での私の立場は磐石。若いからって、ちょっと器量がいいからって、なんですか、あのつんけんした態度」
 若くて器量がよくてつんけんしている、そこがいいのだと思った弾四郎だったが、暗殺されると困るのでまた言葉を呑んで、
「よきに計らえ」と女を下がらせた。
 数日後、「こもがえの具足皿【ぐそくざら】」の一枚が消えているかもしれませんと、同じ女から報告があった。ほくそ笑んでいた。
 あれを隠したのかと弾四郎は唖然となった。十枚揃いで宴席に出せば、質素な料理も至高の美味となり、毒素さえ消散すると言い伝えられてきた、家宝中の家宝だ。
 台所で立ち働いているお菊の許へと足を運び、告げた。「お菊、もう噂を耳にしていようが、城主ご不在が続いている以上、おそらく近日中に青山様が城主に昇格される。祝いの席にはもちろん、こもがえの具足皿を並べる。今はお前が管理していると聞いた」
 お菊は傅き、「重大なお役目を賜り、身に余る光栄と存じております。大切に磨いて箱に収めてございます」
「確認したい」
「はい」
 弾四郎は続きの間でお菊を待った。家紋が描かれた桐箱を捧げ持ち、お菊が入ってきた。
「いまここで数えなさい」
 お菊は箱を開け、透き通るような色合いの皿を一枚ずつ取り出して蓋の上へと重ねていった。一枚と数えて下に挟んであった紙を乗せ、二枚と数えてまたその上に紙を置く。「四枚……五枚……」
 七枚めにまで至り、弾四郎は思わず固唾を飲んだ。
「八枚……」お菊の顔からさっと血の気が引いた。「九……枚……数えなおします」
「足りないのか」
「数え間違いでございます」
「一枚……二枚……」お菊は皿を箱へと戻していった。いま目の前で何枚か割ってしまうのではないかと弾四郎が懸念するほど、その手は震えていた。「八枚」
 九枚めを箱へと戻すと、蓋の上には何も残っていなかった。お菊は唇をすぼめたまま発語できずにいる。十枚、と云いたいのだ。しかし数えるべき皿が、もう無い。
 震えは全身へと至り、ひいいっ、と彼女は悲鳴をあげて箱から目を逸らした。
「お菊、割ったな?」弾四郎は優しく尋ねた。
 お菊は激しくかぶりを振って、「割っておりません。割ってなどおりません。なにかの間違いでございます」
「代々の当主が数え間違えてこられたとでも?」
「滅相もございません」
「ではお前が割ってしまい、罪逃れにそれを隠したのだと結論せざるをえない。俺はお前を縛らねばならない」
 お菊はひれ伏した。「お赦しください。町坪様、どうかお赦しください」
「俺が赦して皿が増えるならそうしてやりたいが、事が事だ。仮に俺の女の過ちであれば、青山様のお目こぼしもあろう。しかし目を掛けているどころか、間者の疑いさえあった下女の粗相とあっては、口添えのしようがない」
 お菊は消え入りそうな声で、「お手討ちでしょうか」
「命までは奪われまいが、重罪人として扱われる覚悟はしておいたほうがいい――ただの下女だとしたらの話だ。改めて問うが、俺の庇護を受ける気はないか」
 一時ののち、おもむろに顔をあげたお菊は、下唇を咬み、その目付きには強い険が宿っていた。事の真相を悟ったのだと弾四郎は感じた――一切が間者に対する罠であることを。
 下男を呼び、荒縄を持ってこさせた。
「この女を縛り上げろ」
 下男は戸惑いを露わに、「生憎とそういう素養はございませんで」
 弾四郎は舌打ちをした。「じゃあアシスタントに徹しろ。縄をよこせ」
 下男にお菊を押さえ込ませて、その腕を背中へとねじ上げて縄を掛け、もう片方もねじ上げて、後ろ手に縛る。手際の良さに、
「器用なもんでございますな。どこでお勉強なさったんで」と下男が驚いている。
「紳士の嗜みだ。お前もよく見て覚えておけ」
 お菊は抵抗せず、もはや声もあげなかった。ただ挑むように弾四郎を見返している。その眼光の強さに、弾四郎はまた気付いた。この女……いずれ救いが訪れると思っている。播州を制するのは鉄山ではなく、則職と元信だと確信しているのだ。
 男としての矜恃をことごとく踏み付けられたような気がした。激情にまかせ、ところ構わず彼女に縄を掛けては縛った。だが縛れば縛るほどに、お菊の中身は稀薄になって、縄からも着物からもすり抜けていくようである。息苦しさに喘ぎもせず固く唇をむすんでいるその横顔の、菩薩のごとき気高さに動揺した。俺は……俺は、この女を堕落させねばならぬ。
 下男を下がらせた。部屋には弾四郎とお菊、そして九枚の皿が入った箱。
 縛り上げられて身を反り返し、祈るように目を閉じている女の顔を、じっと眺めた。恋い焦がれてきた相手が、あられもない姿でいま目の前にいる。陵辱しようが命を奪おうが、もはや自在である。それでいて彼女の心は、決して手に入らない。縄の圧迫によって血流を妨げられ、はや薄紫色を呈している彼女の両手に、弾四郎の視線は吸い寄せられた。雨上がりの紫陽花が想起された。
「お菊よ、十という数は美しいものだな……衣笠様にさぞや、その十本の指を愛でられてきたことだろう」小莫迦にするかのように顔を背けているお菊に、彼は語り続けた。「女とは哀しいものだ。狭量な衣笠様にいかに忠義を尽くしたところで、得られるのは心変わりをしなかったという自己満足だけ。たとえば再会したお前が醜い存在になっていたとして……あの方はそれでもお前を愛し続けてくれるだろうか」
 弾四郎の視界はいつしか潤んでいた。俺なら違う。俺は違う。

 たとえば歌舞伎『繪本合法衢【えほんがっぽうがつじ】』の立場【たてば】の太平次のごとき、視野の狭い小悪【しょうあく】に常から心を惹かれてきた。社会の歪みを象徴した人物像であり、また物語の牽引者でもある。手塚治虫の漫画であれば悪少年ロックが演じる役回りだ。町坪弾四郎もまた同様の存在と云える。
 弾四郎の視点から「播州皿屋敷」を語りなおしてみようと試みたところ、すでに浄瑠璃からも『実録』からも大きく逸脱してしまった。もし忠実になぞれば、冤罪工作と死体隠しの矛盾が露呈してしまう。「番町」に見られる、指の切断から身投げに至るプロセスのほうがロジカルだ。
 このさい想像力の赴くまま、幾つもの「皿屋敷」をミクスチュアしながら、お菊の悲劇を描き続けてみよう。もの云わぬ蛹のような、それでいてなお神々しいお菊に、なんとか鬱々たる恋情を伝えんとするごと、弾四郎の心は狂気へと傾いていった。お菊はもはや彼にとって聖女であり、それだけに、彼女の眼中に置かれぬ自分が惨めでならない。
「なにか喋れ」
 とうとう刀を抜いてその白い顔に突きつけるも、お菊はすでに救済された夢でもみているがごとき穏やかな表情でいる。
「堕落しろ。忠義を捨てて俺の女になると云え」刀の先を、背にまわされた彼女の指へと当てた。刃【やいば】の冷たい感触は伝わっているはずだが、やはりお菊は目を開かない。「十あるはずが九しかない疵物になってなお、衣笠様の寵愛は変わらぬとお前は信じるのか? 信じられるのか?」
 お菊がとうとう反応した。当然と云わんがごとく、頭を大きく縦に動かしたのである。弾四郎の視界は憤激に白んだ。
「では味わえ、三つ指もつけぬ女の哀しさを」と彼女の右の中指を握り締め、刃を当てて力任せに引いた。さしものお菊も身を痙攣させて横倒しとなり、弾四郎の手中には断たれた中指の先が残った。
 それでもお菊は……声をあげなかった。無言のままで気絶していた。溢れ出ては床を濡らしていく鮮血を見つめるうち、我に返った弾四郎、慌てて縄の余りをほぐし、それで彼女の中指の残りを縛って止血を施した。それからぐなりとなった彼女を自ら抱えてその寝間へと運び、呼吸が楽なよう縄をすこし緩めて寝かせておいた。俺には愛せる……疵物であれ、お前なら愛せる……と憑かれたように呟き続けていた。
 目覚めたお菊が事態を冷静に捉え、もはや自分の庇護下でしか生きられないと思い直してくれることを期待していた。夜には覗きにいって優しい言葉をかけてやろうと決めていたが、待ちきれず、夕刻、再び彼女の寝間へと出向いた。障子が開いていた。なかにお菊の姿はない。
「しまった」
 逃げられた! と初めは思った。室内をよく見れば、弾四郎の止血が不全であったらしく点々と血痕があり、廊下へ、そして庭の踏石へと続いていた。先にある涸れ井戸の、重しを置いた蓋がずれているのを見て取り、履き物もはかずに飛び出した。井戸のほとりに大量の血痕があった。全身を縛られたまま、お菊は頭と肩とで重い蓋を動かしたようだ。
 あの穏やかな表情が意味していたところを彼は悟った。とうに自害を決意していたのだ。懐に手を入れ、懐紙に包まれた彼女の指を握る。お菊は堕落しなかった。ただ劣情に狂った人でなしが、彼女の脱け殻と共に、ぽつねんと今生に取り残されていた。

 鉄山は涸れ井戸を埋めるよう指示し、形ばかりとは云えども僧侶を呼んでの供養の儀を執り行った。しかし一枚……二枚……と皿を数えるお菊の声は、弾四郎の耳朶から離れない。眠れず、食欲もなく、すっかりやつれて気弱になり、
「俺はこのまま死んでしまうのだろうか」と、お菊を陥れた下女に小声で洩らせば、
「私にも聞えますよ。あのときお台所で聞いていた、あの娘が具足皿を数える声が」と甲高く笑いながら答えた。その目を見返し、彼女が恐怖によって狂っているのを弾四郎は知った。
 お菊を責めるのを手伝った下男は下男で、庭に彼女そっくりの虫がいる、何匹もいると怯えて、遑を願い出てきた。これらの噂は疫病のように屋敷に蔓延し、誰しもがお菊の声を聞き奇怪なお菊虫を目にするようになり、青山家は寂れた。屋敷を離れた者たちから洩れたのであろう、かつての陰謀の仔細を知った則職が城に舞い戻り、やがて彼の命によって鉄山は討たれた。そのとき屋敷に、すでに弾四郎の姿はなかった。姉の死の真相を聞き及んだ妹たちが仇を討ったとも、そうするまでもなく狂死していたとも云われる。
『播州皿屋敷』も『実録』も足利時代の話だから、一七九五(寛政七)年の麝香揚羽の大量発生を、その登場人物たちが目にした可能性はない。しかし廃人と化した弾四郎が、涸れ井戸のほとりをひらひらと舞う黒い蝶に向かって、お菊……お菊……と呼びかけていたさまは、容易に想像できる。

著者プロフィール

津原 泰水(つはら やすみ)

1964年広島市に生まれる。青山学院大学卒業。少女小説作家〝津原やすみ〟としての活動を経て、97年に現名義で『妖都』を発表、あらゆるジャンルを横断する作家として、本格的活動を始める。『ペニス』『少年トレチア』『綺譚集』などで人気を博し、2006年の自伝的小説『ブラバン』はベストセラーに、また本格SF『バレエ・メカニック』や短編集『11』でも各種ランキングを席巻してきた。古典芸能、書画、工芸、音楽に造詣が深く、〈幽明志怪〉〈たまさか人形堂〉〈クロニクル・アラウンド・ザ・クロック〉シリーズ、『赤い竪琴』、尾崎翠の幻の映画案を小説化した『琉璃玉の耳輪』など、幅広い知識を駆使した作品、多数。