6. フローラルアルデヒド




父兄会、よそのお母さん達はひどくパウダリーな香水の匂いをさせていたものだ。あの人達は巨大なパフで体中に蛾か蝶の鱗粉をはたいているのだと思っていた。
子供は無闇に香水の匂いを、臭い臭いと言う。けれど幼い私は臭いと言いながら、あのおしろいめいた匂いを嗅ぐたびに、胸のどこかが熱くなるような慕情を覚えた気がする。



免税店の化粧品売場に、少し吐きたくなるようなそんな香水の臭いが噎せ返る。他国の空港にいるのに、充満する香りのせいで幼年時の空気を思い出す。
「フローラルアルデハイド。その成分が、パウダー臭を強調させるんです」
売場の女性が、英語でそのような内容のことを説明した。女性の胸元にも首筋にも、その匂いがふんだんに吹き付けられているらしい。名香の一雫をたらしたムエットを手で仰ぎながらこちらの顔を覗き込んで、胸を押し付けてくるような接客をするのに辟易し、土産物をついそれに決めてしまった。



ありがとう、と土産を受け取った母は意外そうに言った。母がそれほど日常で香水を使わないと知っていても、たまにはいいだろうと思った。
その手首に一拭き香水を吹き付けてあげる。
「昔を思い出す匂いね。おしろいみたい」
「フローラルアルデヒドの匂いなんだって」
花めいていながらも化学物質を彷彿とさせるし、宇宙の赤い星アルデバランみたいでもあるし、不思議な言葉だ。アルデハイドの発音よりも、日本語の表記の、アルデヒドという方が良かった。
初めのひと嗅ぎの強い匂いには噎せるが、残り香は粉末が舞うようにきらきらとして、はぐれた蝶が後をついてくるような儚さだ。懐かしいというより、何かにせき立てられ、胸をかきむしられるようだ。



「このおしろいっぽい匂い、下の階に住んでた緑川さんを何となく思い出すのよ」
ちょうどこのフローラルアルデヒドの香りに、黒い揚羽蝶を連想していたところだ。暗い鱗粉のイメージは、誰かの思い詰めたような瞳に辿り着く気がした。誰の目つきかは思い出せなかった。
けれど不意に母の一言が、あの黒目勝ちの目つきをすぐ傍まで手繰り寄せた。
「いまもいるの、緑川さん」
「もうかなり前に引越して行ったわよ」



階下の二階にひっそり住んでいる、きれいだが陰鬱な顔立ちの女性だった。
自分は当時幼かったので、彼女の印象は母の記憶の断片から立ち上げただけの虚像かもしれない。あんな控えめなひとなのに甘くて濃い香水をつけていたので、意外な気がして印象に残っている、と母は言う。
階下に住んでいたという以外に、多くの住民の中でも地味な緑川さんを自分が覚えているのには、もう一つ理由がある。それはある曖昧な、それでいて鮮烈な記憶の一場面から来る。



赤いスカーフが風に巻き上げられる。銀色の通過電車が通過する。
自分は、スカーフの女と、女の胸に抱かれた幼児と三人で、駅のホームで通過風に吹かれている。
風に目を細めるのは緑川さんだ。そこに母はいない。
これは自分の物心が付いた初期の記憶なのだ。何かのきっかけで思い出すたび、緑川さんの名前がたまに昔語りの中に挙がるのだ。



一度くらい、あなたを緑川さんの部屋に預けたことはあったかもしれない、と母は言う。
緑川さんとはよく似た無口な気質で、相歩み寄って仲良くしたわけではないが心のどこかで信頼関係はあったように思う、とも母は言った。
ただ、何の用事で私を他人とともに駅のホームなどに行かせたのか、行先がどうしても思い当たらないらしい。大事な一人娘の外出とあらば、何があっても必ず母が私に同伴したからだ。
「緑川さんは確か独身だったし、子供はいなかったと思うわよ」
「でも、小さい男の子があの人にだっこされていた記憶がある」
「親戚の子かなにかだったのかも」



久しぶりに実家の団地に帰ってきて、幼い頃の記憶に包まれ、眠たくなってくる。半分閉じた目に、陽だまりを這っていくなにかの虫が、ずっと映っている。
「虫だ」
私が机にうつぶせたまま呟くと、母が窓際を見て、ああ、と気のない返事をした。
「昔、虫眼鏡に太陽の光を集めて、紙の上にいるカメムシを焼いたね」
と自分は何となく口走った。そんなような気がしたが、定かではなかった。
母がまた怪訝な顔をして、
「あなたそんなことする子供だった?」
と言った。
「カメムシって臭いじゃない。だから焼いたんだと思う」
「残酷ね。でも、それ、あなたじゃないんじゃない」
「そう、私はそんなこと、確かにしない気がする」
私の一切の記憶には、脈絡があまり無い。けれど光や匂いの感じだけはかなり強烈に、断片的に刻み込まれている。それが時々、自分のものではなく他人のものでもおかしくないような気がすることがある。



「香水ありがとうね、じゃ、また」
母に見送られ団地の階段を下りる。踊場を曲がるところで母がゆっくり扉を閉める。住人不在の二階のドアの前にさしかかる。
が、そこで足が止まった。
ふとあの香水の匂いがしたのだ。
自分の指先にもほんの少し付いているかもしれないが、そこから匂うのではない気がする。
引越して行った、とこちらが思い込んでいただけで、まだ緑川さんはいるのではないか。表札には誰の名前も無いけれど。あの頃、各部屋の前にほんのり漂っていたそれぞれの家庭の生活臭と同じように「香水の匂い」がひとの営みの気配として漂っているのを感じる。



何も意識をしていないのに、自分はもう、二階のその部屋のドアを開けていた。
玄関には香港フラワーが丁寧に飾ってある。
くぐもった音をさせながら、熱帯魚の水槽が狭い廊下に光を落としている。
暗い廊下に、天然パーマらしい髪を後ろで結った緑川さんの影が出迎えた。
心では、すみません悪気は無いけれどついドアを開けたくなって……などと弁解しているのに、声は発生されないままだった。



そのかわり、緑川さんがすっと自分の脇に腕を滑り込ませ、身体を押し付けてきた。それを抱き返す自分は、彼女よりずっと背が高かった。
鼻いっぱいに彼女の香水の匂いを嗅いだ。
変だと思いながらも、反射的に彼女を抱きしめてあげずにはいられなかった。私は女のはずなのに、じつは女ではなかったのか、と、彼女の背にまわしている自分のごつごつした指を見て不思議に思った。
おかえり、と彼女がかすれ声で言った気がした。
声を押し殺している彼女の雰囲気とは裏腹に、ひたむきに自分に額だけを押し付けているその力に、激情のようなものを感じた。



部屋の奥に、不機嫌な目つきの三歳くらいの男の子がいる。
自分の手が今度はその子の方に伸びている。男の子は、その伸ばした手を避けるように逃げた。
「おじさんくさい!」
と鋭い声で男の子が叫んだのを聞いた。
臭い、臭い、臭いと連呼しながらばたばたと走り回るのを緑川さんが厳しく押さえ、思い切り頬をつねったようだった。子供はきゃっと泣いた。
「しょうがないわね」
とか細い緑川さんの声がする。
ふっと細い手に自分が抱きかかえられたような気がして、また鼻いっぱいに彼女の匂いを感じた。
今度は自分は、幼く小さい鼻先を、屈んだ彼女の胸に泣きながら押し付けていた。
ずっとこの香りの中に自分は安心して内包されていたはずなのに、そこに知らない外気の匂いと嗅ぎ慣れない人の匂いが流れ込んできた。その異質な匂いに、一刻も早く消えてほしかった。



ふと目を見開いたと同時に、ざっと貨物列車が目の前を通過して行った。今度はあの人生初期の記憶の、駅のホームに立っているようだった。
緑川さんが子供を抱いている。
香水が鼻に届く。緑川さんが緩く巻いている赤いスカーフから匂うのだ。
貨物列車のあと、またほどなく銀色の急行列車が通り過ぎるとき、そのスカーフが落ちて飛んだ。反射的にホームの際まで追いかける。
屈んでバランスを喪った瞬間、何か強い力で押されたような気がした。
つんのめって転倒する前に、彼女の連れている男の子と目が合ったようだった。



それとほぼ同じ瞬間に、別の映像も自分は見ていた。
緑川さんの胸の中に抱かれながら、ホームの端に大人の男が駈け寄るのを見ている。
それを力を込めて見据えた。じっと眉根をよせ、気持ちの焦点を合わせるように。
ちょうど、虫眼鏡から屈折する太陽光で、あの臭いカメムシを焼くときのように。
白い炎みたいに男の姿はもわっと気化して、忽然と消えてしまった。



今度こそ我にかえると一階の踊場前で、何か一心に銀色の郵便受けを見据えていた。
確かに緑川さんには子供はいなかったのだ。そういう確信が湧いてきた。と言うより、理屈が納得出来た気がした。
男の子が消したのは、よその男ではなく、他でもない自分自身の父親だったのだろう。
実父と知ってか知らずか、あの男性がいなくなった瞬間に、息子もまた存在が消えた。
おそらくは、緑川さんの人生の記録そのものからも。
そんなことを案外冷静に想像出来るのに、なぜこの自分がその一連の顛末を目撃した記憶があるのか、と言うことに思い至ると、理由がわからぬまま、胸がかっと熱く締め付けられる気がした。



二階に誰が住んでいるかを、この際見向く気もしなかった。
三階まで駆け上がってチャイムをしつこく押し、驚いている母を遮りつつ、さっきの香水を取り上げて、捨てるために外へ持ち出した。