7. 兄




灰紫色の薄闇が全てを覆っている。
女子高校の暗い校庭では陸上部が短距離の計測を行っている。次々と走ってはターンして、大鈴懸の木の下に戻っている。
みな、姿が薄青く燃えているように見える。
ソフトボール部を見ると、更に美しい。それぞれの守備位置でプレーしている生徒達は皆残らず、完全な狐火だ。燃える点のようなものが、暗いレーダーの画面上を移動するように、集まったり拡散したりしている。
親しいクラスメートは、綺麗な青い火を纏いながらグランドに居る。不思議と今日は、「兄のいる、末の妹」である友人ばかりがグランド上にはいるようだ。暗い狐火に包まれながらも、みな楽しそうな表情をしている。
自分が彼女達に近づいたのは、その兄妹構成に憧れを持ったからかもしれない。一人っ子の自分には、きょうだいを持つという感覚がわからない。自分も、兄さんというものが欲しい。年長の異性のきょうだいが居る彼女達は、どこか独特の愛を受けて生きているように思えた。
自分は二階の教室で、”兄の妹”たちの遊び回るグラウンドを見下ろしていた。
その時だ。ふと、ソフトボールの鈍い打音とともに、何か青い光が近づいてくるような感じがした。
ファウルボールが教室のガラス窓を割った。
教室は、青い炎に包まれた。



  ◆



なにもかも青紫に殺されたような感じの、もどかしい空気の中にいる。高校の鞄を持っているが、帰路なのかどうか思い出せない。どこか古い日暮の団地だ。
ゆったりと夢のような男女の二重唱の歌謡曲が、どこかから聞こえている。自分はどこにも行きあぐねて、団地一階の踊場の表側と裏庭の間を往来したり、柵を越えたりを、延々繰り返している。
不協和音がベースのその歌謡曲は、何の主題歌だったろうと、必死で思い出そうとしている。たぶん、テレビで見た映画『心中天網島』の紙屋治兵衛が、兄妹の悲恋を歌う唄だ。けれどそもそも、『心中天網島』はそんな粗筋だったはずはないのに、とも思える。
団地一階の窓の柵は藍色の闇を吸い込み、漏れる灯にはカーテンの紅色が浮き立っている。
そうだ、やはり自分は今、家に帰る途中だった。兄と喧嘩したので何となく帰るのがいやだったのだ、という記憶が何となく蘇ってきた。



  ◆



冷凍庫を開けると、アイスクリームが買い置きされていた。
雪山の写真が印刷されている見慣れないパッケージだ。家族の誰が買ったのかわからない。アイスクリームとあるがシャーベットに近く、質感は雪のようだった。硝子の器に盛ると本当に白い雪山のように見えた。
この盛ったアイスの山の形といい、蓋に印刷されていた写真といい、どこかで見たような気がする。
匙を咥えながら何の気なしに台所の隣室に入ると、兄の作業机の上に大きな山岳写真のポスターが貼ってあった。
厳しく冷たい山稜。そうだ、この山だ。見たことがある、と思った。
ポスターに見とれながら匙で当てずっぽうにアイスを口に運んだ時、兄の机の上にアイスがこぼれてしまった。また怒られてしまう。
布巾を取りに部屋を一旦出てみたが、いや、自分にはそもそも兄などいただろうか、という曖昧な気がした。



  ◆



青い鳥を飼い始めた。ふつう人がイメージする真青な鳥ではない。ブルーグレーの単色のインコだ。鳴くときは、綺麗な声で鳴く。
暑い日なので、氷彫刻のねじり棒で出来た鳥籠に移し替えてあげた。
おとなしい鳥で、飾り物のように隅の方に居たまま動く様子も無い。鳴かないかな、と氷の間からうどんを一切れ出し入れするが、丸い眼で震えているだけだ。
兄が来て、
「また幸せの青い鳥をいじってるのか」
と言った。
今にも意地悪をし始めそうな感じなので、私はふと立って鳥籠を向こうに持って行こうとした。
「お前の鳥は最近ちっとも鳴かないな。かまいすぎるからだぜ」
氷の鳥籠は振動でぽたぽたと雫を垂らした。インコはさすがに驚愕して、もがくように羽ばたいた。
兄はまたきつく言った。
「何やってんだ。そんな冷たい、しかも脆い籠に入れるなよ」
たしかに、鳥籠が溶けて壊れると困る。
棚から手頃な大きな硝子瓶を持ち出して、インコを詰めた。しかしインコは、気づくと既にもう萎縮した亡骸になってしまっていた。あらかじめ死んでいたと知っていて、自分がそんな硝子瓶を持ち出したような気もした。
兄のせいではなく自分のせいなのに、兄を憎んだ。
その時、兄は今度こそ血相を変えて、私の手から硝子瓶を奪った。
「何なのよ」
「誰の骨壺だと思ってんだよ」
私ははっとして、すまない気持ちになった。
その硝子瓶は兄自身の骨壺だったような気がしてきた。



  ◆



日もすっかり暮れた暗い帰路で、久しぶりに、忘れかけていた兄と会った。顔の表情ははっきり見えなかったが、輪郭が薄青く燃えているような気がした。
「最近お前、俺を勝手に死人にでもしてるのか」
唐突の言葉に戸惑ったが、刺すような肉親の愛憎に、有無をいわさず射抜かれる。
「はじめから居もしない弟をよそで探してんのか」
的を射ていると思って、我ながらぞっとする。兄の口ぶりに寂寥を感じる。
「言うことを聞く弟の方がいいか。そのほうが心が通じるか」
「もっと可愛がってくれるものだと思ってた。兄、とかいうものは」
「悪かったな」
「嫌なところだけが似過ぎている兄妹なんて、期待はずれもいいとこだった」
そう言ってみて自分でも急に切なさが募ってきた。自分で自分の身を切り裂くような痛みだった。
「じゃもう、要らないか」
「兄弟が欲しいなんて幻想はとっくのとうに消えたわよ」
「へえ」
「今はたぶん私自身があんたに同化していってるだけよ」
と言ったら、何もかも心得た感じだが、
「俺になることはないだろ。あんまり男性的になるな」
と忠告してきた。そしてこうも言った。
「本当の兄妹なのは俺とお前だ。親しくてもよその男には、よその男として接してくれ」



「たまに会う遠い親族みたいな位置づけだな、これでは」
と、兄の声は不満そうだった。
「俺はお前自身だ、っていうけど、お前」
と合点が行かないような感じで、兄はポケットを探している。
これほど存在が曖昧な人間でも、煙草は吸うのだろうか。赤い火だけがリアルに思える。
兄に感情移入すると、自分の存在が今度は消える気がした。



  ◆



どんな時間が交錯したのかわからないが確かにある時期の自分には、「兄がいる日」というのがあった。
一人っ子のはずだったが。
あの日、高校のソフトボールのファウルボールが教室に飛び込んできたときからだろうか。
兄とのやりとりはいつも薄青い色の中にあり、とてもおぼろげなものだった。そのひとときはいつも、ゆっくりと夜に近づくまでの半日の出来事を、長い時をかけて夢見ているような感じだった。
「上にいたはずの子がもし無事に生まれてきていたら、母さんは逆にあなたを生まなかった」
親族がある日漏らした言葉。その言葉にのせて兄はこの世の隙間に、妹の記憶の中に、不思議な未練を忍び込ませてくるようになったのだ。



誰に甘えることもしなくなり、甘えたいとも思わなくなるまで、年を重ねた頃。あの青い、薄情と激情とで私をいたぶる兄は、もう現れなくなった。
兄のいた日があったという記憶も、かりそめの幽霊潭のように遠いものになっていった。
私は、晩婚でずいぶん年下の、まるで弟のような夫を得た。