5. 夜の薔薇
君の住む程度の、平凡な町にならあるだろう。電器屋なのかガラクタ屋なのかわからないような店。
電池が欲しかった。近くのコンビニはつぶれたばかりで、車でホームセンターに行くのも億劫だった。仕方なく、道すがらの小汚い電器屋に入った。
配線やら電球やら、レコードやらアンテナやらが、所狭しと散乱している。薄汚れたジャンパーを着て、針みたいに細い柄の黒眼鏡をかけた、五十がらみの男が出てきた。
単三電池を求めると、電池はもう売り切れている、とその店主は言う。何に使うのかと聞いてくるので、これから夜にラジオを聞くから、と答えた。
夜の仕事をしているのか、と更に突っ込んできたので、苛立ちながらも、
「まあ、夜の仕事でも水商売の方じゃなくて、警備の」
とうっかり俺は口を滑らせた。
すると、店主は語り始めたのだ。陰鬱な声で、歯止めもなく。
◆
かつて僕が働いていたのはね、大学の寮だったんだよ。夜間だけの守衛として雇われていたんだ。広い土地にある寮だった。森の中の監獄みたいなね。
門のところに小さな守衛小屋がある。毎夜、そこに二人の守衛が詰めていた。寮の中には別の警備員が入る。僕らの仕事は主に外回り、敷地の森の番だった。
毎晩深夜に交代で、原付バイクで敷地を回るんだ。提灯アンコウみたいにライトを点けて。
夜が好きだ。静かな木々の間を移ろって行く自分のバイクの灯に、ぞくぞくしたよ。自分だけが世界を知っているような、全能の感覚だ。
僕は、「夜を徹して働く人」に憧れていたんだ。灯台守とか、山小屋番とかね。
深夜ラジオのDJに至るまで、ロマンを感じた。あとはほら、例えば、遠い山々を巡る送電線があるだろう。あんなものを管理する人々も、この世のどこかにはいるんだ。
誰にも見られていない水銀灯は、誰の為に、何を照らすのか、考えたことがある? 誰にもみられていない時間に、地球は多くを語るんだ。木々も、命ない無機物でさえも、こっちの孤独を対等に見つめ返してくる。
そしてね、見向かれないものと、見向かれない人間は、相性がいいんだよ。
僕と一緒に働く相方の守衛は、ずっと年長だった。世間話もしたが、たいていその先輩は勤務中に居眠りしていた。僕はかえって気儘に、深夜のラジオを静かに聞いていたもんだ。
彼の勤務ぶりには特徴があった。年がいっているせいか、外回りの巡回も、同じ道順を行っているはずなのに、僕よりずっと時間がかかるんだ。もう少し早く戻れとも言いづらいし、それほど気にすることでもなかった。
でもある時、彼の守衛服の袖がいつも濡れて、夜露が付いているのを不思議に思ったんだよ。そこで、道を歩いて先回りして、彼がバイクで回るついでに何をしているのか、探ったんだ。どこでバイクを降りて寄り道をするのかは、しばらくは掴めなかった。
けれど、とうとう見たんだよ。彼は、バイクを降りたりするわけではなかったんだ。走ったまま、バイクの光と音が、森の一角ですーっ、と黒い中に消えて行く。しばらく観察しても、幾日も同じなんだ。
吸い込まれるように、黒が黒すぎる闇が一部分だけあるんだよ。不思議だった。
ある深夜、思い切って自分もその、周りより黒い場所に入ってみた。闇に方向を見失って、何度も引き返そうと思ったけれど、勇気を出して歩いて行ったよ。そうしたら、なにがあったとおもう?そこに。
花園だよ。
信じられないことにね、奥深い、鬱蒼とした夜の薔薇の園が、そこに隠されていたんだよ。
僕はすぐに、先輩の守衛に見つかった。でも、彼は驚きも怒りもしなかった。
「君にもこれから手伝ってもらおうかな。夜の時間は長いのだから」
なんて言うんだ。
夜露の潤いが足りないと、ここの薔薇は枯れる。薔薇を長持ちさせる薬品を水分と一緒に、夜通し霧吹きでかけ続けてくれ、って。暗さのせいか、はじめは花の色なんかあまりわからなかった。そのかわり花ごとに特徴の違う香りをさせているのはわかった。同じ株でも、全て違う匂いの薔薇が咲いていた。
薔薇園が何のための、誰のものなのかは、説明もされなかった。でも新しい秘密を持ったような面白さで、その後も職務の合間、夜の園芸作業に黙々といそしんだよ。
ある日、先輩がこんなふうに僕に言うんだよ。
「君、夢というものがあるだろう」
将来の夢のことかと思って、僕はまだいわゆる自分探しの途中だ、というようなことを答えた。
「そうじゃなくて、夜の夢だ。いま僕らがこの花の番をしているということはね、人々の夢の番をしている、ということなんだ」
と先輩は言うんだ。はじめは、意味が分からなかった。
「悪夢もあればいい夢もある。夢には質があるだろう。潤った花がよく香る、それは花の質だ」
いや、そういうことなんだよ。
僕らは夜を徹して花を調整することで、この世の人々の安らかな夢の質を守っている。そういう役目を負っていたんだ。そう、それは実は、とても重大な仕事だったんだ。
一輪一輪の花の状態が、守衛室のモニターに映るようにね、人々の夢の状態のバロメーターだったんだよ。
その夜から、僕にとっての薔薇は、意味を変えたんだ。かしづくようにして、深紅の薔薇の眠りを守った。白い薔薇の病的な夢も、救ってやったよ。死角にあって栄養が足りない萎びた花は、かわいそうに、誰かの悪夢になるのさ。
闇に慣れてきた夜目には、夜露に濡れた薔薇の色は、この上もなく美しかったよ。それに愛おしかった。その香り具合から、僕はあらゆる人物の夢の中身を想像した。
番をする、ということは一方的な奉仕なんだけれども、よく考えてみると、人々の夜の夢の行方を支配しているのは、僕らなんだ。そうなんだよ。誰にも知られないところで僕らは、この世界の夜の眠りを掌握していたんだよ。
けれどね。この不思議な役目に夢中になっていくうちに、一つの思いがわだかまるようになったんだ。
自分は毎晩こんなにも夢の世話をしてやっているのに、それが誰のどのような夢なのかを、見ることはできない。何もかもが先輩の狂言であって、ここが夢の管理所なんかではなくただの植物園にすぎないという疑念も勿論持った。それでも僕の中で、花たちが日に日に擬人化されていく。僕という存在を彼らに知って欲しくなってしまった。
もどかしくて、先輩に見えないところで、僕は薔薇に悪戯をし始めた。持ち込んだインクで白い花びらを染めてしまったり、隣り合う薔薇と薔薇をむりに紐で縛り付けて接吻させてみたり、挿し木をしてみたり、時には一番気に入りの薔薇の花を掌で粉々に握りつぶしたりした。
花びらたちには不思議な現象が起こるのさ。この眼で見た。一晩のうちに幾色にも色を変えるやつもある。ある晩だけ悪臭を放つやつ、一度は萎れた花首がまた見る見るうちに起き上がってくるやつ。薔薇は確かに生きて、夢を見ている。そこはただの植物園では無かった。
それでも、その向こうにどんな人間がいるのか、見えはしないのだ。
お前の夢を支配しているのは、意識を操っているのは、ここにいるこの俺なのだ、と気づかせたくなる。その夢に自分も出現してみたい。ところが僕は相変わらず水やりをし、肥料をやるだけだ。
明け方、守衛小屋で仮眠するときの僕自身の夢がやがて、延々と薔薇の世話をしているだけの現実か夢か区別の付かないものになってきた。そんな風になってやっと気づいた。あの薔薇園の中には、自分自身の夢の花もあるはずなんだ。ところが、僕は僕自身の花を判別することも、それに影響を及ぼすことも、何一つ確認は出来ない。
夢や意識というのは、絵を描いたり言葉で操ったりするようには掴めない。動かない。もっと別の、手に触れられないところにある。それで、夢に触れようとすることなんか、やめたのさ。何かを操作していると考えることも。支配者になればなるほど僕自身の存在が希薄になっていくだけだった。
そのうち僕は眼を病んでね。じきにその守衛の仕事自体をやめてしまった。夜の園芸作業で散布していた薬品が強すぎたんだろうな。眼に入ったんだ。
先輩の警備員、あの人は、どういう気持ちで薔薇の世話をしていたのかなあ。
彼は職務怠慢で解雇されたよ。守衛小屋に殆どいないのだからね。薔薇園が撤去されたのかどうかは、知らないね。昼間には、見たことがないのだから。本当はそもそもそんなものはなかったのかもしれないな。
彼とその薔薇園の関係や由来を、とうとう一回も聞くことはなかった。悔やまれるような、それでよかったような、ね。
僕の眼は、どうして冒されたのか。夜には、確かにあれはあそこにあった。それだからこそこの世界では皆、いい夢を見ることが出来たんだ。
今でもどこかにきっとあるよ。別のどこかにね。
◆
「え、で、それで普通に、電器屋さんになったんすか?」
「僕の本当の仕事はこれ」
店主はそう言いながら、マジックで真黒く塗りつぶされた電球を持ってきた。声をひそめて、やたらに俺に顔を近づけながら言った。真顔だった。
「実はね、この世の夜は、僕が作るんだ。僕は、夜を見守る仕事からは降りたけれど、その代わり、夜を作る側に回ったのだ。この黒い電球はね、つけたらあたりが暗くなるんだよ。つけてみようか?」
すみませんけど、俺は、夜は嫌いです。そう言って自分は電器屋を出た。
真昼の光の下に戻ると、改めて、ぞっとした。どうなっているんだろう、あの店主の頭。あんな人もいるんだな。