4. 乙姫




坂の途中にあるその家は、かたちが横長だ。
がらんとした三つの大部屋が連続している。磨き込まれた透明な大きい硝子戸は、冬枯れの庭に面している。
もう持主はどこにもいなかった。事情があって家を譲り受けたのは私だ。
こんな広い家を、明日からどうしよう、と戸惑っている。



様子をもう一度把握するため、家の中を見て回る。
平屋建てだとばかり思っていたが、屋根裏的な二階もある。二階のぐるりには細い回廊があり、古い細工の欄干がめぐっている。そこだけを見ると遊郭のような不思議な形の建物だ。
外へ出て、伸び放しの枯草を掻き分けつつ扉の鍵を外から閉めた。
その時、ふと雨戸の閉じた窓辺りに、どことなく人格のようなものを一瞬感じた。幽霊などじゃない。
家じたいの人格だ、と思った。



秘密の隠れ家が欲しいなどと思っていたら、幸運にも空家の新しい主になった。
それはいいのだが、秘密の隠れ家というには自宅からあまりにも近いところにあるのが不満だ。
契約を終え、家の様子を下見した帰り道、なんとなくこの契約そのものが気が重く感じられてきた。あまりに急な話だし、近所の空家を第二の家にするなんて、あまり意味がない。
それに、家自体が意味もなく横長過ぎ、何となく不気味だった気がする。
やはり明日仲介人に話して、契約を反古にしよう、と決めた。



空地のススキがざわめいた。空は曇っている。
ふと気づくと、何だか赤い色の一切登場しない青ざめた風景の中を自分は歩いている。
その時、
「約束は守って!」
と、自分に似た声が、突然自分の中で叫んだ。



  ◆



自宅近く、待ち伏せされている気がしてはっと顔を上げると、目の前に赤いものがあった。
道の真中に焚火が燃えている。
驚いて、誰か消さないのかしらと思いはしたが、取り敢えず焚火を避けて通る。



帰って暗い部屋でうたた寝していると、玄関のチャイムがなった。
扉を開けるまでもなく、玄関脇の磨硝子の向こうにある光るものを見て、身が凍り付いた。
さっきの焚火が、家を訪ねてきている。
一瞬、どうしていいかわからなかった。
が、火を消したほうがいいと思い直し、ほんの少し扉を開け様子を窺うと、焚火はまだ扉の外に待っていて、おとなしく燃えている。
道路を買物帰りの人が通ったが、近所の子でも見るくらいの感じで、焚火をちらっと見て過ぎる。みな、その程度の認識なのか。慌てて消化器を持ち出す人などいないのか。
混乱したまま黙って戸を閉める。



結局、消防車も呼ばず火も消さず、ぼんやりと過ごし、夜が来て、いつしか朝になった。
帚で道路を掃く音がする。近所の人が掃除をしているのだろう。
そっと扉を開けてみると、焚火がだいぶ小さくなって、掃除の人の塵取りの中にさっと掃き取られ、共同塵捨場に棄てられるところだった。



  ◆



高い金網の角の植木屋を曲がったところで、走り出した。朝のバスぎりぎりの時刻だ。
植木屋は松の盆栽を商っている。金網の内側の棚は、さまざまな姿態の松で埋め尽くされている。
今日はやけに雰囲気が豪華で明るい、と通り過ぎながら思う。
電照菊のビニールハウスのように、金色の電灯で松が照らされているからだった。



私が走るのより速い速度で、植木園を何かの影が動き回っている気がする。
「それを捕まえて!」
自分の声が自分の中に響いたので、反射的にその影の方を見る。
すぐ近くの植木の合間を、大きい魚の影のようなものが過ぎたように思った。
バスに遅れると思って、声を無視した。
ところがいつもより植木屋の金網が長い。何百メートルも延々と走らなければならなかった。
やっと停留所に着いた頃には、バスが行ってしまった後だった。



  ◆



あ、買い忘れた、と慌てて夜の町に飛び出す。
足は文房具屋に向かっている。閉店の時間も近いので間に合うかしら、と焦っている。
商店街の入口で、やけに灯の青々と涼しげな食堂があるのに気づいた。こんな店があっただろうか。
水色の桟の硝子戸のかなり古い店で、中では頭巾のおかみさんが青白いテレビを立ちながら見ている。急いでいたのに、気になってつい中を覗いてしまう。
食堂ではなくあんみつ屋らしい。
誰もいない青いテーブル席に、果実の盛られた美しいあんみつが置かれている。
桜桃と蟹蒲鉾の赤い色だけが特に浮き立っている。
青い卓が海のように見え、水の中の竜宮城のような色彩だ。



ふと我にかえって考えると、自分が商店街に何を買いにきたのか、実は全くわかっていない。
取りあえず入った文房具屋の店内も、妙に灯が青い。極彩色に輝く熱帯魚シールや、天井から吊るす光るモビールなどが売っている。
しかしまだ、何を買いにきたのか思い出せない。
サインペンの回転ラックの前、そこだけ色が際立っているような赤いペンを見つめていると、自分の中の声が、
「それ買って!」
と叫ぶ。
まただ、と聞きたくもない声に身をこわばらせ、思わず何も買わないで店を出る。



それから更に、失念の程度はひどくなった。
文房具屋や赤いペンのことすらも頭から消えている。スーパーマーケットの売場を熱にうかされたようにふらついている。
ふと気づくと、手に幼児用のぬり絵を持ってみたり、子供用品売場で白鳥のおまるの頭に手を置いたりしている。
食品売場に行っても、どれもが目当ての商品ではない。焦りばかりが募る。何とはなしにキュウリを一本買ってしまった。しかしキュウリを買いにきたのではない、とも分かっている。



閉店音楽が流れ、あっという間にシャッターが閉まり始めた。
すり抜けるようにシャッターをくぐって外に出たが、胸苦しいほど心残りだ。
店外の子供用の鯨の電動マシーンに鍵をかけにきた店員に、思わず縋り付いた。
「何を買いにきたか思い出すまで、もう数分待っていただけませんか」
けれど、しっ!と動物でも追い払うようにされ、夜道の坂を戻るしかなかった。
ぼんやりと記憶に蘇るあんみつ屋、あれがきっかけだったのだ、と思う。赤いペンを買わずに文房具屋を出たことも思い出した。
このところ、何かに符牒を合わせることを迫られている。それを自分は拒み続けている。



夜の大気の中、辺りの家の庭から沈丁花の匂いが漂っている。
右手の一角の坂を入れば、しばらく放置しているままの隠れ家がある。
あの横長な家にはどこか人格を感じる。
このところの内なる声は、あの家の喉元から響いてくる気がする。



  ◆



横長な家の、三つ並んだ大部屋をゆっくりと行き来している。
住む決心は既についたのだった。
家が人格を持っているのかどうかは分からないが、このところ続く内なる声に従わない限りは、次第に自分の意識や記憶が歪んでいくような気がしてきた。
早く家に入って!と促され続けているようで、ここへやってきた。



家具もほとんどないし、このうえ何も要らない。がらんとした中で、ひとりで暮らすのだ。
再び自分の中の声が、頭の中で指令をかけてきた。
「明るくなるまでここで番をして!」
真中の部屋に小椅子が一つだけあるので腰掛け、暗くなる部屋が暗くなるままに任せ、硝子戸から外を眺めていた。



一瞬、斜めになった身体が椅子から倒れたところで目覚めると、大硝子の外は、既にしんと明るかった。
外はもう庭ではなくなっている。
ここは、薄青い夜明けの美しい海辺だ。
窓の外に回廊がある。横長な家は、水の上に建つ高床式の横長御殿に変わっていた。
すぐ裏の白砂の浜には松林がある。松林の向こうは町らしいが、何やら赤い光が騒がしい。
燃えている。町は何かの災禍で、火に包まれているのだ。
炎を反映した赤黒い空に、無数の盆栽らしき影が、黄色いサーチライトに照射されて揺らめいている。
事情は分からないけれど、この横長御殿は何らかの難を逃れたようだ。
自分は独り、災禍に巻き込まれる運命を逃れてここにいるのだ、と漠然と悟った。



あの時買わなかったはずの赤いペンが、コートのポケットにあった。
目の前に広がる光景に向かって、まるで絵の画面に向かうように手が伸びた。
絵巻めいた海景の横長御殿の欄干の部分に、赤い色を差してみた。
景色の全体がとても美しくなった。
これから、絵に描いた竜宮城のようなこの静けさの中で自分もここに固定され、永遠に独りでいるのだな、と思った。