その⑦ 泉鏡花を中心に清方、雪岱の三角世界(トライアングル)
    トリオの中に、もう一人の人物が

 
 鈴木清方による小村雪岱についての文章が、昭和十七年、高見沢木版社から刊行された『画集・小村雪岱』の序文としてある──と知って『鏑木清方文集』(昭和五十四~五十五年・白鳳社刊)をチェックする。
 山田肇の編による、この全八巻の清方文集の巻末に全巻の内要梗概が掲げられている。清方の文章世界を知るよいガイダンスになるので転記しておこう。
一 制作餘談   自作の本繒や挿繒にまつはる折々の記述や回想記など、著者の八十年におよぶ画業を通じての體驗談を収録。  
二 明治追懐 清方の自傅的回想文。著者が青年期にぢかに接觸した事がらは、そのまま明治時代文化の貴重な記録でもある。
三 先人後人 さまざまな出會を通して、清方の畫業に影響を興へた先人後人への、眞情をこめて綴る畫壇人物評。
四 春夏秋冬 四時の自然から受けた折々の感懐情操や、傅統の蓄積に上る純日本的生活を愛する著者の心境を託した文章。
五 名所古跡 圓朝との野州旅行、東海道・關西への自動車旅行等ユニークな紀行文と、失はれゆく東京下町の名所古跡巡り。
六 時粧風俗 幼少より親しみ愛した歌舞伎の世界とその劇評。美人畫を描いて餘人の追随を許さなかった著者の女性風俗觀。
七 畫壇時事 批評家清方の眞骨頂を示す畫壇時評や作品評は、明治・大正・昭和にわたる日本繪畫史の貴重な資料である。
八 随時随感 繪畫の表現に適せざるもの文に依り舒ぶ、といふ清方の一生を通じて折々に書き記した文章を編年體で収録。
 以上、いきなり長い引用で申し訳ないような気がしないでもないが、先に記したように、画業とともに卓越した文章の人でもあった清方の文業を一望することができるので、敢えて引用、紹介することとした。
 実際、こう書き移してくると、一巻一巻をすべて親しく手に取り、気ままにページを操りたい誘惑にかられる。(実際に、つい、その態勢に入りかける)しかし、そんなことをしていては、書くべき原稿が進まない。ましてや、この稿で書かなければならなかったのは、小村雪岱についてである。
 我に返った気分で、目的の、清方による雪岱画集の「序」の文章をさがす。あたりをつけたのは、三巻の「先人後人」と八巻「随時随所」。目指す一文は三巻目にあった。『雪岱集』序。
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『鏑木清方文集』三巻「先人後人」の函のデザイン
 

 この序文、11ページに及ぶので、所々ピックアップして清方による雪岱のプロフィールとして紹介したい。すでにふれたが、清方は雪岱より9歳年長の先達で、日本画壇や挿画の世界でも微妙な立ち位置の違いがある。
 清方は挿絵の世界から世に出、そののち、いわゆる本絵、展覧会にも大作をたびたび出品し、その画業を認められる日本画の大家となるが(そして晩年は、また挿画中心に戻ってゆく)、雪岱は先輩にあたる清方の提言にもかかわらず、日本画家として展覧会向きの大作の制作に向かうことなく、雪岱ならではの挿画世界、また装丁、さらに舞台美術という分野において足跡を残してゆく。
 その著作においても清方と雪岱は、きわめて対照的で、清方が作家の全集に近いボリュームの文集八巻をもつのに対し、雪岱の随筆集は、これもすでに記したように、わずかに『日本橋檜物町』一冊のみである。雪岱ほどの人気の挿画家、装丁家、舞台美術家の随筆本が、たった一冊というのも(なぜだろう?)という気にさせる。身辺雑記も含めて、原稿執筆の依頼、注文がなかったはずはない。当人が、それらを頑なに受けつけなかったと思うしかない。
 画業においても日本画家としての力量を認めていた清方が、本絵の制作を推めても、それに応じることなく、泉鏡花を信奉する“雪岱世界”を築き、その外の世界へは出ていこうとはしなかった。
 そんな雪岱に対し、清方は雪岱の才能を惜しみつつも、あたたかい視線を注ぐ。『雪岱集』序を見てみよう。
 書き出し──
 小村雪岱さんの繪──それにつながっての仕事のどれでも、寔に細緻にして情の醇なること、恐らく當代に求めて得られないものを具へてゐた。
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雪岱の挿画による「雨」二点。左は『おせん』。右は、これも邦枝完二作『お伝地獄』。“お伝”とは、毒婦といわれた高橋お伝。谷中・寛永寺の元五重の塔のあった脇に、お伝をしのぶ石碑がある。
 

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もう20年ほど昔か、京都・寺町の浮世絵店で売られていた木版刷りポチ袋。「おでん」とあるから、おでん屋さんからの祝儀袋?いや、ちがいます。「お伝」に因むタコの画。説明は……はばかります。
 

 「寔(まこと)に細緻にして情の醇なること──」清方は、さすがに、ひとことで雪岱の絵の世界をとらえ、説明している。そして、その「情」についてだが、それはただ人間の情だけではなく、
しめやかに降る雨、千草にすだく秋の蟲の音、それらに情致あるのは當然としても、非情の木竹、たとヘば黑板塀でも建仁寺垣でも河岸に立ちならぶ並藏でも、一度小村さんの筆にかゝれば、あの 嫋々(じょうじょう)とした美女の分身でもあるかのやうで、電光電雨の凄まじい光景が寫されてあつても、恐ろしさより却って情趣のなつかしさを覺えさせる。
と説く。雪岱の「情」の気配は、すべて、雪岱描く「嫋々とした分身」であるというのだ。感覚的な物言いをする清方は、また、一方、ズバリと評論的断定もする。
かずかずの仕事のなかで、私は何のためらふところなく挿繪をまつさきに推す。装幀と舞臺装置とがそれに次ぐのであらう。
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雪岱による久保田万太郎『下町情話』(大正4年・千章館刊)。千章館はあの『日本橋』を刊行した出版社。窓の外の川は当然、隅田川だろう。
 

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鶯啼亭捨月による、戯画戯歌。雪岱装の久保田万太郎『下町情話』の扉裏には永井荷風への献示が記されている。
 

「鏡花宗門」信徒としての泉鏡花との関係とその挿画については
師弟のやうな間柄になつて最後までその誓渝(かは)ることなく、文と繪、元よりそのかたちは(かは)るけれど、鏡花世界に咲く花の香に慕ひ寄る胡蝶の姿と見らるゝ畫境を展開するに至った。
そして、この一文は、このように閉じられる。
小村さんがある時々に起臥して、面相筆を筆洗に濯ぎ、組皿に繪の具を溶いた、日本橋の路次の柳、音なし川に影をうつした山吹の、あれも、これも、松柏摧けて薪となり、桑田變して海となる。ゆきて還らぬなつかしい面影を、雨にも雪にも偲ぶさすがは、たゞこの『雪岱集』の一巻あるのみ。
画集の序として寄せられた文ながら、中国初頭の詩人・劉延芝(季夷)の有名な詩をおりこみながら、追悼の気のあふれる文である。
 ここまで読んで。(ハテ、この文章、少し前に読んだなぁ、と思い、もしやと、中公文庫が絶版になってからしばらくたった2006年、平凡社ライブラリーに収められた『日本橋檜物町』を改めてチェック。やはり、「付録」の中の一文に、『雪岱集』序があったではないですか!

 清方文集の八巻「随時随感」にも雪岱に関わる一文が収められていた。題して「小村さん追想」。(昭和十五年十二月記)
 美術學校の生徒で愛讀寫なんだが、一つ装釘をやつてもらふことにした、とある時泉君(鏡花少史)が話したのが小村さんの噂をきいたはじめ、それから鏡花本の装釘はその人のものと極まつた。
美術学校(現の東京芸大)で下村観山のもと、日本画を学んでいた雪岱を若き人気作家・泉鏡花が彼を起用、装丁を依頼したことを清方に告げたときの話だ。すでに鏡花の小説作品の挿画を担っていた清方と、鏡花から装丁の仕事をまかされることとなった若き美大生の雪岱。このとき鏡花を中心に清方、雪岱の三角世界(トライアングル)が生まれる。清方は語る。
 新開挿繪では、『おせん』『おでん』など人気をあつめたものであつたが、春信再来の評あつた『おせん』は殊にすぐれたものであった。
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邦枝完二『おせん』(昭和8年・朝日新聞の挿画。)上は庭での行水のあとの後ろ姿。下は縁側で足の爪を切る主人公。絹糸のような繊細で柔らかな描線。
 

 このあたりで、雪岱を語る清方の文章から離れて、雪岱自身の著書『日本橋檜物町』に移ろうと思っていたのだが──、八巻の清方文集を手にしているとき、そこに付された月報を何気なく目を通していた。目次の最初に里見弴による「温容」と題する一文があり、次が大佛次郎による「鏑木清方画伯」。
 大佛次郎という名を見て、ある予感がして、見すごすことができなかった。ぼくの記憶のなかに“泉鏡花の文章よりも清方の文章のほうが上”といっている作家の言があり、(たしか、それは大佛次郎ではなかったか)と不確かながら憶えていたからである。
 予感は当った。この大佛の一文にふれ、引用することは、また清方に立ち戻ってしまうことになるが、雪岱が信奉した鏡花のことにも関わることなので、どうしても記しておきたい。鏡花ファン、マニアなら絶句するかも知れない一文なのだ。
 大佛は「特筆すべきは」と前おきし、清方の随筆の文章が文壇人の書くものとは違って、気負うところのない、素直でなだらかで、画家の目で物を確実にとらえた名文であることである」「これだけの文章を書くひとは、ひろい世界に、あまりないと信じ愛読する十冊の中に掲げている」と、絶賛する。
 とくに注目したのは次に続く一節である。
変な言い方であるが、先生(※清方のこと)が常によろこんで挿画を描いた泉鏡花の文章など、実は先生のかたわらにおくと、装飾だらけで、きざで、きらきらしていて、おっとりとして底光りする先生の文体には、とうてい比較にならぬ拙いもののような気がして来る。
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戦後の雑誌『苦楽』の表紙絵。(昭和23年新年号)。『苦楽』は作家・大佛次郎の出資による趣味性の濃い大衆文芸誌。大佛は清方に毎号の表紙絵を依頼。
 

 鏡花独特の文章世界で、今日も熱烈な、というかむしろマニアックなファンをもつ鏡花の文体が“文章を専らとはしない画家・挿画家の清方の文章に劣る”というのだから大佛次郎の評は、ずいぶん思い切った言い様である。
 キラキラと輝き(きら) めく、才気あふれる鏡花の文体よりも、さりげなく控えめながら、「素直でなだらかな」清方の文章をよしとする。
 先に、鏡花を中心に、清方、雪岱の三角世界(トライアングル)が形成されたと記したが、清方側に大佛次郎が加わり、もう一つ、新しい構図が生まれた。もっとも、文章は、その人、その人の好み、相性もあるから、なんとも言えない。
 ただ、大佛次郎の、この指摘は美術家の文章や随筆、「軽ンズ不可(ベカラズ)」の、うれしい警告を発している──と言い添えて、改めて雪岱の『日本橋檜物町』を手に取ってみたい。
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コレクター垂涎の雪岱装のあれこれ。ぼくの所持している清方『銀砂子』も見える。嬉しい。(平成4年鏑木清方没後20年記念展図録より)