彼の国では、公用語とされているのはヒンディー語ですが、言語や文化の違いで州が分かれているため、州によって言葉が違ったりするのだそう。それも単なる方言ではなく、文字も異なるとのこと。そういえばインドの駅名標には、色々な種類の文字が書いてありましたっけ……。
私はヒンディー語地帯である北インドを巡ったのですが、着いてすぐ驚いたのは、唯一知っている言葉「ナマステ」は「ありがとう」を意味するのだと思っていたら、「こんにちは」「こんばんは」といった意の挨拶語だったこと。それくらい、私にとっては未知の国でした。
ヒンディー語はデーヴァナーガリー文字というもので記されています。それは一本の物干し竿に、文字が洗濯物のようにぶらさがっている感じの文字で、もちろん全く読むことができません。このちんぷんかんぷんな感じこそが、海外旅行をしている実感を深めると言えましょう。
その国の文字が、何となくでもわかるか否か。それは、旅先の心理的な距離を決めるような気がします。日本人は漢字が読めるので、中国語圏においてはそれほど違和感を覚えないものです。大陸で使用されている簡体字は、あまりにも簡体すぎて理解できないこともしばしばですが、それでもデーヴァナーガリー文字より親しみはあるわけで、レストランのメニューも、全く訳がわからないわけではない。肉なのか魚なのか、何とはなしに想像をつけることはできるのです。
そして一応、我々はアルファベットも読むことができるので、英語圏においても、文盲状態にはなりません。英語を話すことはできなくとも、自分の行きたい店の看板くらいは、
「あ、ここでいいのね」
と、確認することができるのです。
しかし、たとえば韓国。あの国に行くと、私は「ものすごく遠くに来た」という感じがするのです。日本からすぐ近くで、顔も似ているし、食べ物にも全く違和感は無いというのに、ハングルでの表記が徹底しているため、街を歩いても「?」の連続。看板を読むこともできないので、繁華街ではいちいちお店の中を目視しないと、それが何の店かはわかりません。
インドの場合、旧英国領ということもあって、デーヴァナーガリー文字とともにかなりの割合で英語が併記されていました。ので、私の「ちんぷんかんぷん」感はかなり軽減されたのです。しかし韓国の場合は、英語、というかローマ字併記率がかなり低いような気がするわけで、街に出ると意味不明な記号が大量に並んでいるという状態。そこで我々は「異国に来たのだな……」と思う、と。
それはもちろん、日本にやってきた外国人にとっても同じでしょう。
「漢字は、文字というより絵のように見える」
と、ある外国人が言っていましたが、確かに「竹」の字はまさに竹のようだし「雨」の字だって雨っぽい……という表意文字である漢字は、外国人にとってはわけがわからないと同時に、意味を想像しがいのある文字なのかも。そして、そんな漢字と平仮名と片仮名が混在する看板が乱立する繁華街など歩いた日には、異国情緒満点といったところではないか。
インドからの帰国後、私はヒンディー語とはどのようなものなのかと、学習サイトを見てみました。日本語の初歩として「あいうえお」を学ぶように、ここではまずデーヴァナーガリー文字を学ぶわけですが、母音と子音のみならず、半母音だの摩擦音だの、日本人には馴染みの無い発音をする文字が大量に並んでいて、即座に「無理」と思った私。文字の書き方にしても、どこからどうやって書いたらいいものやら、さっぱりわかりません。ものすごく微妙な文字の違いで、発音が違ったりもするのです。
とはいえ、外国語というのはどれも、他国の人からしたら難解かつ奇妙に見えるのでしょう。日本語をふりかえれば、外国人の皆さんは「わ」と「れ」と「ね」がそれぞれ違う文字って勘弁してよ、と思うに違いありません。そして「斉藤」さんと「斎藤」さんと「齋藤」さんがみんな違う人、みたいなことにも、イライラするのではないか。というより、もしも私が英語圏の人間だったとしたら、日本語は平仮名と片仮名と漢字で構成されていると知った時点で「無理」と思うのではないか。
インドは英語がかなり通じる国なので、私はインド旅行中、自らの英語力の貧しさに日々、「あーあ」と思っておりました。海外旅行では毎度のことですが、「どうしてもっと英語を勉強しなかったのか。帰ったら絶対に英語がんばろう」とも思う。
しかし考えてみると英語というのは、たった二十六文字さえ覚えればとりあえず書けるという、実にシンプルな言語なのかも。幼き頃、先生を恨みながらも日々、漢字の書き取りに時間を費やすことによって、「間」も「関」も「簡」も、全部意味は違うけれど「かん」と読む……みたいなことがわかるようになってよかったのかなと、今となっては思います。
そしてもちろん、日本語世界に戻ってくれば英語のことはコロっと忘れてしまうわけで、英語の勉強には全く手をつけていないことを、ここに告白いたします。

インドの駅名標には、デーヴァナーガリー文字をはじめ、色々な種類の文字が書いてあります。
このちんぷんかんぷんな感じが「異国に来た」ことを実感させます