第16話 わが心にも涙ふる――李白最晩年の「雨」

 

  唐王朝の時代の李白といえば、天才の名をほしいままにした大詩人だ。その魅力はといえば、なんといっても、一読して心に残る名句の数々だろう。
 川下りの船旅をすれば、「軽舟(けいしゅう) (すで)()万重(ばんちょう)の山」とスピード感をありありとうたい、落差の大きな滝を眺めれば、「疑うらくは()れ 銀河の九天(きゅうてん)より()つるかと」と豪快にたとえてみせる。美酒を「玉椀(ぎょくわん) 盛り来たる 琥珀(こはく)の光」などと華麗にうたわれては、だれだって、一献、傾けてみたくなろうというものだ。
 そんな李白の名句の中でも、最も人口に膾炙しているものといえば、「白髪三千丈」ではなかろうか。白髪が9キロほども伸びるとは、大げさも大げさ。典型的な李白的表現とされているこの句は、「秋浦(しゅうほ)の歌」と呼ばれる作品の一節である。
 「秋浦」とは、中国第1の大河、長江下流にある地名。清らかで美しいその地の風景に触発されて作られたのが「秋浦の歌」だというわけだが、実はこの作品は、17首から成る連作で、「白髪三千丈」で始まるのは、その15番目の詩である。
 李白は秋浦を何度か訪れているので、「秋浦の歌」の制作年代にもいくつかの説がある。とはいえ、「白髪三千丈」というからには、年老いたイメージが強い。李白は762年に数え年62で亡くなっているが、その直前、60歳前後には、長江の下流域に滞在していた。「白髪三千丈」がその折の作品だとすれば、連作としてまとめられた17首全体にも、最晩年の感慨が投影されているとみるのが、順当なところだろう。


 さて、この「秋浦の歌」連作17首のうち、2番目の詩に、ちょっと気になる「雨」の字が出て来る。全体で8句から成る作品なので、半分ずつに分けて引こう。
  秋浦 猿は夜 愁い
  黄山(こうざん) 白頭(はくとう)に堪えんや
  清渓(せいけい)隴水(ろうすい)(あら)ざるも
  (かえ)って断腸の流れを()
 「黄山」は秋浦に近い山の名で、「清渓」は秋浦を流れる川の名。「隴水」も川の名前だが、これは秋浦の近くではない。昔の詩に「 隴頭(ろうとう)の流水、鳴声(めいせい)幽咽(ゆうえつ)す」とうたわれて以来、悲しい音を立てて流れる川だというイメージが定着した、一種の歌枕である。
 ――ここ秋浦の地では、夜になると猿が悲しい鳴き声を上げる。それに堪えきれず、黄山もてっぺんがすっかり白くなってしまった。清渓だってあの隴水ではないのに、腸を引き裂くような音を立てて流れていくのだ。
 中国では、猿の鳴き声は悲しく響くとされている。「黄山 白頭に堪えんや」は、解釈しにくい句だが、雪化粧したことを表現したものだろう。黄色が白になるという一種のことば遊びではあるものの、猿の鳴き声のあとでは、「白頭」ばかりが印象に残って哀切の情をかきたてる。そこに、「断腸」の響きを立てる川音が重なって、人の心を責めさいなむような、なんともものさびしい情景を作り上げている。
 そんな情景描写を踏まえて、後半の4句では、詩人の思いが吐露される。
  去らんと欲して去るを得ず
  薄遊(はくゆう) 久遊(きゅうゆう)と成る
  (いず)れの年か 是れ 帰日(きじつ)ならん
  涙を()らして 孤舟(こしゅう)に下る
 ――旅立ちたいのにそうもいかず、ちょっとのつもりが長い滞在になってしまった。いつになったら帰れるのだろう。そう思いつつ、涙の雨を降らせながら、宿にしている小舟へと戻っていく。
 さすがの天才詩人も、老いには勝てぬのか。この作品では、あの豪快奔放な表現は影を潜め、孤独な涙が流れるばかりだ。
 最後の一句は、原文では「雨涙下孤舟」。この「雨」は、「天が雨を降らせる」という意味の動詞だから、「雨涙」で「涙を雨のように降らせる」という意味になる。とはいえ、この意味を表す表現としては、「涙如雨(涙 雨の如し)」の方がすなおで、漢詩漢文では定番だ。「○○のように」という意味を表す「如」を使わないで、「雨」と「涙」を直接、結びつけた「雨涙(涙を雨らす)」は、日本語に置き換えれば「涙の雨を降らせる」といった表現になる。
 「涙の雨を降らせる」を「涙を雨のように降らせる」と比べてみると、説明的な「のように」がない分だけ、凝縮された表現になっている。ことばとは、凝縮されればされるだけ、余情を生むものだ。
 そう考えると、「涙を雨らして孤舟に下る」という一句も、余情を汲みながら鑑賞したくなる。その涙は、単に老いを嘆くだけのセンチメンタルな涙ではない。天才詩人が60年に及ぶ歩みの果てに到達した、孤独な世界に降る雨なのである。


 「涙の雨を降らせる」のような表現は、日本語でもよく使われる。ただ、日本語の場合、「涙の雨」という表現を、「涙」と「雨」を直接的に結びつけたものだと、言い切ってしまってよいものかどうか。なぜなら、日本語には、さらに「の」まで取り除いてしまった、「涙雨」ということばがあるからだ。
 建久4(1193)年5月のことである。前年に征夷大将軍に任ぜられたばかりの源頼朝は、富士の裾野に御家人たちを集めて、盛大な巻き狩りを行った。その夜、寝静まった小屋々々の間を、息を潜めて歩く二人の若武者の影があった。
 一人の名は、曾我十郎祐成(すけなり)。このとき、数え年で22歳。もう一人は、2つ年下の弟で、五郎時致(ときむね)という。二人は、兄5歳、弟3歳のときに父を殺され、その仇である工藤祐経(すけつね)をつけ狙っていた。そして、この日、ついに仇討ちのチャンスをつかんだのである。
 夜の闇の中で、兄弟は工藤祐経の寝所を探り当てる。憎き父の仇は、酒に酔って眠りこけていて、殺して下さいと言わんばかりだ。こんなにたやすく事が運ぶとは! と小躍りする弟。しかし、兄は「眠っている相手を殺すなんて情けない」と考えて、わざわざ工藤経祐を起こしてから、仇討ちを果たしたのだった。
 首尾よく本懐を遂げた二人は、声をそろえて名のりを挙げる。『曾我物語』には、「頃は五月二十八日夜半過ぎのことなるに、雨は頻りに降り、(くら)さは闇し」とある。雨音の響く真っ暗闇の中で、兄弟は、やがて集まってきた御家人たちを相手に、獅子奮迅の立ち回りを見せることになった。
 その結果、兄の祐成は壮烈な討ち死にをする。弟の時致は召し捕られえられたが、事がここに至った経緯を堂々と述べた上で、怖れることなく斬首の座についたのだった。
 曾我兄弟の死は、多くの者を悲しませた。中でも、とりわけ深い悲しみに沈んだのは、兄の妻、虎だった。彼女は尼となり、それから45年の後、64歳で生涯を閉じるまで、兄弟の菩提を弔い続けたという。
 「曾我兄弟の仇討ち」として知られるこの事件が起こった旧暦の5月28日は、梅雨の最中である。あの年と同じように、毎年、この時期になると雨が続く。そこで、後世の人々は、そのころに降る雨のことを「虎御前の涙雨」と呼ぶようになった。
 ここでいう「涙雨」とは、天に昇った虎御前の涙が雨となって降ることだ。涙を雨にたとえているのではなく、雨を涙にたとえているのだ。
 「涙雨」においては、雨が主役である。現在でも、我々は、お葬式のときなどに降る雨を、「涙雨」だと表現することがある。このとき、実際に我々が涙を流しているかどうかは、問題ではなかろう。天が人間の代わりに泣いてくれているのだから、悲しみの表現としては、それだけで十分なのである。


 とすれば、「涙を雨らせて孤舟に下る」の李白も、ひょっとすると、涙などこぼしていなかったのかもしれない。天が代わりに泣いてくれていたのかもしれない。
 黄山の頂を白く染めた初雪が、そぼふる雨に変わる中、ひっそりと小舟へと戻っていく、老いたる詩人。この詩句から、そんな情景を想像してみたい気もする。


 悲しみを直接、指し示すのではなく、天候に仮託して表現する。「涙雨」の持つ情緒の深さは、そこにある。
 実のところ、「雨」と「涙」を結びつける発想は、ありふれたものだ。だが、月並みなものにはやはりそれなりの魅力があるようで、だからこそ、ちょっと手を加えると、読む者の印象に残る表現になるのだろう。
 フランスの詩人、ヴェルレーヌの有名な詩句、「忘れられた小曲」の次の一節も、そのいい例である。
  (ちまた)に雨の降るごとく
  わが心にも涙ふる。
  かくも心ににじみ入る
  このかなしみは何やらん?(堀口大學訳、新潮文庫『ヴェルレーヌ詩集』)
 これは、一見すると「涙を雨のように降らせる」のパターンかと思われる。しかし、涙が降っているのは心の中なのだから、現実としての涙は流れていない。では、現実としての雨が降っているのかというと、そうでもなさそうだ。
 詩人は、自分の心ににじんでくる悲しみをじっとみつめて、それがまるで街に降る雨のようだ、と感じているのだ。その雨が現実の光景である必要はない。いや、むしろ、空想上の雨である方が、詩の情景としては味がある。
 現実の悲しみを、比喩としての涙と比喩としての雨を用いて表現する。この詩句がセンチメンタルに陥らずに人の心を打つのは、そんな手の込んだ構造を持っているからなのだろう。


 そうだとすれば、小舟へと戻っていく李白の後ろ姿の上に、わざわざ雨を降らせる必要もなさそうだ。
 ふるさとに帰れるのはいつの日なのか? 60年の苦難を乗り越えてきた末にそう嘆く李白の目から、本当に涙が流れていたのかなど、どうでもよいのだ。
 ただ、詩人が「雨」と書き「涙」と書けば、その作品を読む者の胸の内には、雨が降り涙が流れる。詩の世界で「真実」と呼べるのは、それだけなのである。