第15話 土ぼこりを浴びながら――「霾」の詩情

 

 昭和を代表する詩人、三好達治に、次のように始まる一種の散文詩がある。

 冬の初めの()れた空に、浅間山が肩を揺すつて哄笑する、ロンロンロン・ヷッハッハ・ヷッハッハ。「俺はしばらく退屈してゐたんだぞ!」そしてひとりで自棄(やけ)にふざけて、麓の村に石を投げる、気流に灰を撒き散らす。

 この作品のタイトルは、「(ばい)」。一般の国語生活にはめったに登場しない漢字だろう。訓読みでは「つちふる」と読み、空から土ぼこりが降ってくることことを表す。「雨かんむり」の下の「貍」は、「狸」と同じで、ふつうは動物のタヌキを指す。そうだとわかると、この見慣れない、むずかしそうな漢字に一気に親しみが湧いてくるから、不思議なものだ。
 「狸」は、音読みでは「リ」と読む。ということは「貍」の音読みも「リ」だから、「霾」も「リ」と音読みしてみたくなる。しかし、この場合の「貍」はタヌキではなく、「埋」と同じ意味なのだという。「霾」を音読みでは「マイ」または「バイ」と読むのは、そのせいだ。
 漢字のふるさと、中国北部の黄河流域では、いわゆる「黄砂」が平原を駆け抜ける強い風に捲き上げられて、しばしば砂嵐が発生する。その激しさに、空は重たい黄色に染まり、地面や人家は砂塵で「埋」め尽くされてしまう。「霾」とは、そんな激しい砂嵐を指す漢字なのである。
 その「霾」を、三好達治は、浅間山が火山灰を降らせることを表現するために使ったわけだ。だが、ここで興味深いのは、1932(昭和7)年1月にこの散文詩が雑誌に発表された際には、「地異」と題されていたという事実である。
 この年の8月、三好達治は第2詩集『南窗集(なんそうしゅう) 』を上梓するが、「地異」はそこには収められていない。この詩が「霾」と改題されて、初めて書籍の形になったのは、7年後の1939(昭和14)年の4月、それまでの詩業を集成した合本詩集『春の岬』を刊行した際のことだった。
 そういう経緯からすると、三好達治は、「地異」というタイトルではこの散文詩はまだ完成されていない、と感じていたのだろう。この作品は、「霾」という漢字を得て、詩集に収録するだけのレベルに到達したのだ。
 「ロンロンロン・ヷッハッハ」と高笑いしながら噴火する浅間山。そのようすを描いた作品にふさわしい、何か気の利いたタイトルがないものか。長年、そう考えあぐねていた詩人が最終的に「霾」に決めたのには、どういう理由があったのだろう。
 もちろん、火山灰が降り注ぐようすをたった1文字で表現できることも、魅力の1つではあったろう。しかし、「俺はしばらく退屈してゐたんだぞ!」なんて、この詩は一種のブラックユーモアだ。「霾」にはタヌキのイメージが含まれていることも、詩人の心を惹きつけた理由だったのではあるまいか。


 では、三好達治は、「霾」という漢字とどこで出会ったのだろうか。
 三好達治は、漢詩に造詣が深かった。後年、吉川幸次郎と共著で出版した『新唐詩選』(岩波新書、1952年)は、ベストセラーになったほどだ。「霾」とのめぐりあいの舞台も、おそらく、漢詩の世界だったのではないかと思われる。
 西暦766年の春の暮れ。長江の中流、「三峡(さんきょう)」と呼ばれる峡谷地帯にある夔州(きしゅう)という町に、1人の病み衰えた老人が姿を現した。唐王朝の時代を代表する詩人、杜甫である。この老詩人は、戦乱に巻き込まれて流浪の生活を送り、この町にまで流れ着いたのである。
 軍事上の重要拠点である夔州の町には、小高い丘の上に「白帝城(はくていじょう)」という要塞がそびえている。ある日、軍旗はためくその物見櫓に登った杜甫は、はるかなる風景を見渡して、「白帝城の最高楼」という作品を作る。その詩にいう。

  (たに)()け雲は(つちふ)りて 竜虎臥し
  (こう)は清く日抱きて 黿鼉(げんだ)遊ぶ

 ――大地を切り裂く峡谷には土ぼこりが降りかかり、竜や虎のねぐらとなっている。太陽を映す長江の清らかな流れには、スッポンやワニが泳いでいる。
 前半、「峡は坼け雲は霾りて」とは、いかにも荒々しい描写だ。後半も「江は清く」とはいうものの、水面下にはスッポンやワニが隠れている。獰猛な動物たちのオンパレードには、何やら尋常ではない気配が感じられる。
 実際、この詩の最後で、杜甫は血の涙を流し白髪頭を振り乱して、乱れた世を憤ってみせる。とすれば、この対句にも終わりなき戦乱に対する深い嘆きが込められている、と見ていいだろう。「霾」も、その道具立ての一つなのである。
 杜甫は、「霾」という漢字をよく使う詩人である。
 唐の時代のすべての作品を網羅することを目指して編まれた『全唐詩』という作品集には、2200余人の4万9800首余りが収録されているという。インターネットで公開されているデータを使って調べてみると、その中で、「霾」が使われている漢詩は、37首。そのうち、杜甫の作品が12首を占める。現存する杜甫の詩は1500首足らずで、『全唐詩』全体の3%に満たないから、杜甫が「霾」を使う率は非常に高いといえる。
 しかも、12首のうちの10首は、数え年55の春に夔州にやってきて以降、さらに流浪の旅を重ねて59歳で亡くなるまでの足かけ5年間に集中している。絶筆の1つと推測される作品にまで、「霾」が用いられているのだ。
 どうやらこの大詩人は、晩年になって、「霾」を気に入ったようなのである。
 ただ、それらの詩の内容はというと、すべてがすべて、「白帝城の最高楼」のように悲愴なものだというわけでもない。あるときは、閑雅な暮らしぶりをうたう詩、またあるときは、春風にのって気持ちよく船旅を続ける詩。中には、知り合いの役人に酒をねだる詩もある。
 そういう詩の中でも、「霾」は情景描写として現れる。晩年の杜甫は、どうして、「霾」をくり返し自らの作品に詠み込んだのだろうか。
 中国北部の乾いた黄色い大地では、しばしば砂嵐が巻き起こる。「霾」は、そんな風土にこそ似合う漢字だ。一方、年老いた杜甫が流浪の旅を送った長江の流域は、温暖湿潤だから、詩人が実際に「霾」を目にしていたのかも、疑おうと思えば疑えるほどだ。
 ただ、杜甫が生まれたのは黄土高原の南端で、青春時代や壮年期を過ごしたのも、黄土が広がる地域だった。若き日の杜甫が「霾」に吹かれ悩まされたことがあったのは、間違いない。
 晩年の杜甫は、故郷に帰りたい帰りたいと願いつつ、戦乱を避けて、故郷とは逆方向の南へ南へと旅を続けることを余儀なくされた。ついには客死するに至ってしまうまさにその時期、杜甫の詩に時折、「霾」の字が現れるのは、なつかしい故郷の大地が詩人の魂を呼んでいたからなのかもしれない。


 ところで、漢詩以外にも、「霾」という漢字が比較的、よく用いられる分野がある。それは、俳句の世界である。「霾」は、「ばい」と音読みしたり、「つちふる」と訓読みしたりして、春の季語になっているのだ。春になると風にのって中国大陸から運ばれてくる、いわゆる「黄砂」を指すのである。
 文芸評論家の山本健吉は、『基本季語500選』(講談社、1986年。後に講談社学術文庫)で、季語「つちふる」を取り上げている。そして、「黄沙」「黄塵万丈」「蒙古風」「霾天(ばいてん)」「霾風(ばいふう)」「つちかぜ」「つちぐもり」などともいうことを示した上で、「大正末ごろから詠まれ出した新季題」だと説明している。
 「霾」はどうして、大正末ごろから俳句の世界で取り上げられるようになったのか? そのあたりの事情について、俳人の水原秋桜子(しゅうおうし)の『現代俳句歳時記』(大泉書店、1978年)の「黄塵」の項には、次のようにある。
 「もと満州に日本人がおおぜいいたころ、彼の地で生まれた季題であって、満州は春になるといわゆる「黄塵万丈」の現象を呈し、天日もそのために暗くなる、これを【つちふる】とも言った。」
 日露戦争の結果、ロシア帝国から権益を譲り受け、日本が南満州鉄道株式会社を設立して満州の経営に乗り出したのは、1906(明治39)年のことだ。以後、大正年間を通じて、かの地で暮らす日本人は着実に増えていく。中には当たり前のことながら俳句をたしなむ者もいて、やがて各地に結社が設立され、句誌も発行されることになった。
 1930(昭和5)年の9月に、大連俳句会が発行した『満洲昭和俳句集』という本がある。本書に収められた句の数は、満州各地に在住する約500人の3000余句。いずれも、1928(昭和3)年10月から1930(昭和5)年7月までに、新聞や雑誌に掲載された句だという。
 その中の「蒙古風」の項には10句が掲げられているが、そのうちの6句までもが、「霾」を使った句だ。
  霾風や翩翩として乙鳥平凡
  霾天や硯かはきて室寒し幽山
  霾の宙天深く真つ赤な日窓花
  霾天の入江色なく暮れにけり黙子
  霾風の吹きすさびゐて日さびし三昧
  霾や寄りてしづもる牧のもの喜蜂
 凍てつく冬が終わると、満州の広大な大地には砂嵐が吹き荒れる。そんな厳しい自然現象を身をもって体験した俳人たちが、それを自作に詠もうと考えたのは、当然のことだろう。かくして、満州の春の砂嵐は、「季題」として成立していく。
 そして、それを文字として書き表すときには、「霾」という漢字が好んで用いられた。彼らは、いま、「霾」の本場に来ているのだ。「内地」を遠く離れた詩情を書き表す文字として、これほどふさわしいものはなかったに違いない。
 ブラックユーモアでもない。ノスタルジーでもない。
 満州の大平原に暮らす俳人たちが使った「霾」に込められていたものは、俳句の伝統に自分たちならではのものを付け加えるのだ、という気概である。
 詩人や俳人だけではなく、ぼくたちはみな、時に特別な思いを込めて、漢字を使う。漢字は、自分を選んだ者の思いを受け止めながら、用いられるたびに、異なるきらめきを見せるのである。