第14話 仙人の食べるもの――「霞」は何色か?
「仙人とちゃうんやから、
母にそんなふうに言われたのは、いったい、いつの日のことだったか。
そのとき、ぼくがイメージしたのは、白いひげのおじいさんが、綿菓子を食べている姿だった。「仙人」といえば、おじいさんに決まっている。ただ、「霞を食べる」と言われても、近くのお寺のお祭りのときに夜店でときどき買ってもらった、あの白くてふわふわした綿菓子しか思いつかなかったのだ。
――綿菓子ばっか食べとるんや、仙人ってうらやましいなあ……。
おそらく現実の厳しさを教えようとした母の気持ちもむなしく、少年の日のぼくが抱いた感想は、そんなものだった。
仙人は霞を食べて生きている。
この言い伝えは、漢文でいう「
しかし、中国古代を代表する漢字の辞書、『
実際、漢文では、仙人が「霞を飲む」場面が、時折、描かれる。たとえば、4世紀の初めごろに書かれた『
昔むかし、現在の山西省
軽やかに飛び立ってしばらくすると、下界は早くも闇の彼方。だが、見上げてもまだ何も見えない。竜はますますスピードを上げ、曼都は背中から振り落とされまいとしがみつく。
ようやっとのことで天の都に着くと、黄金の寝台に宝玉の机、目もくらまんばかりの絢爛さだ。そこでくだんの仙人は、一杯の飲みものを曼都に向かって差し出した。
「仙人、
「流霞」を一杯、飲むだけで、お腹も減らなければ喉も渇かなくなったのだ。
その後、家のことを思い出した曼都は、天帝の前で失礼をしでかし、下界へと戻されたという。
この「流霞」なる飲みものが、どんな液体だったのかは、わからない。ただ、「流」という漢字からは、何やら洗練された雰囲気が漂ってくる。
ここで、例によって『説文解字』を調べると、「霞」とは「赤き
こうなってくると、綿菓子を食べている白いひげのおじいさんには、退場していただかねばなるまい。代わって、おとなになったぼくの頭の中に浮かんでくるのは、赤ワインか何かをおいしそうに傾けている、優雅なおじいさんの姿である。
日本人にとって「かすみ」とは、空中を漂う水蒸気のことだ。その色はと聞かれれば、ふつうは白だと答えるだろう。だからこそ、綿菓子がイメージされてしまいもするわけだ。
それが赤だということは、中国語でいう「霞」と日本語の「かすみ」とは、別のものなのだろうか?
「霞」という漢字は、紀元前の中国の文献には、ほとんど出て来ない。『説文解字』は紀元後1世紀ごろのものだが、実はこの辞書にも最初は収録されていなくて、10世紀に増補された際に、追加されている。
ところが、紀元後3世紀、いわゆる三国時代のころから、「霞」という漢字は、文学によく登場するようになる。6世紀に編まれた、歴代の詩文の名作約800を収めた『
たとえば、4世紀の終わりから5世紀にかけての大詩人、
朝霞は
「宿霧」とは、前日から残っている霧。それが、「朝霞」によって消えていくというのだから、この「朝霞」とは朝日のことかと想像される。しかし、「霞」とは水蒸気なのだから、霧にも近い。「朝霞」とは、「宿霧」のうちの朝日に照らされた部分をいうのだろう。
――前夜から立ち込めていた霧に朝の光が差してくると、その明るく輝いた部分から、霧が晴れ始める。その中を、朝の太陽に赤く照らされた鳥たちが、連れだって飛んでいく。
陶淵明がどのような気持ちでこの詩を作ったのかはさておき、ここに描き出された情景は、夢の続きでもあるかのように美しい。
また、陶淵明とともにこの時代を代表する詩人、
前半は、林や谷の姿が夕暮れの中に沈んでいくということ。それとパラレルに考えると、「雲霞」とは夕陽に色づいた雲であり、それが「夕霏」つまり夕もやの中に消えていくというのだろう。
濃くなりまさる夕闇に、森羅万象が溶けていく。謝霊運は、その幽玄の美の世界の奥へと、我々をいざなっているかのようだ。
この2つからもわかるように、漢字としての「霞」は、本来は、朝焼けや夕焼けに赤く彩られた雲や霧を指す。その赤い色合いにえもいわれぬ美しさを発見したからこそ、『文選』の時代の文人たちは、それまではあまり活躍の場のなかった「霞」という漢字を、よく用いるようになったのだ。
漢詩や水墨画に描かれている、中国的な山水の美。現在では、それは中国文化を代表するイメージにさえなっている。しかし、中国人がそういった美を発見したのは、実は『文選』の時代だったと言われている。
三国時代から続く政治的な混乱の中で、漢民族の貴族たちの多くが、乾燥した中国北部から、温暖湿潤で風光明媚な中国南部へと居を遷したこと。また、インドから伝わった仏教の影響により、自然を尊ぶ老荘思想への関心がそれまでになく高まったこと。そういった事情が、文人たちの目を自然へと向けさせ、新しい美を発見させるに至ったのだ。
つまり、中国的な美の観念の基礎は、『文選』の時代に作り上げられたと言ってもいい。とすれば、「霞」は、その象徴とも呼べる一字なのである。
ところで、日本と中国との交流が本格的に始まるのも、ちょうど同じころである。例の邪馬台国の女王、卑弥呼が
以後、日本列島に住む人々は、少しずつ中国の文化を受容し、消化していった。その中で、漢字という文字をも理解し、長い時間をかけて、自分たちのことばを書き表す文字として利用するようになっていく。
それでは、彼らは「霞」という漢字を、どのように理解したのだろうか。
現存する日本最古の歌集、『万葉集』に収められた和歌の数は、約4500。そのうち、約70首の原文に、「霞」という漢字が使われている。万葉人もまた、「霞」をよくうたったと言えるだろう。
それ以外に、「可須美」のように万葉仮名を使って「かすみ」を書き表した歌も、10首ほどある。だが、「霞」という漢字を用いる方が圧倒的に多いということは、『万葉集』の時代には、日本語「かすみ」を書き表すために漢字「霞」を使うという習慣がすでに成立していた、と見ていいだろう。万葉人にとって、漢字「霞」と日本語「かすみ」は、同じものだったのである。
だが、実際に見てみると、『万葉集』の「霞」は、『文選』の「霞」ではない。
時は今は 春になりぬと
み雪降る 遠き山辺に 霞たなびく(巻8、1439)
ひさかたの
この夕べ 霞たなびく 春立つらしも(巻10、1812)
冬過ぎて 春来るらし
朝日さす 春日の山に 霞たなびく(巻10、1844)
これらの歌によく現れているように、「霞」は、まずは、春の訪れを告げるものとしてうたわれる。そこには、朝焼けや夕焼けの赤いイメージは、ほとんど感じられない。
そしてもう1つ、万葉人が「霞」に託したのは、恋であった。
霞立つ 春の長日を 恋ひ暮らし
夜の更けぬるに
春霞 立ちにし日より
今日までに 我が恋やまず
見渡せば 春日の野辺に 立つ霞
見まくの欲しき 君が姿か(巻10、1913)
漢字を学習していく際に、日本列島に住んでいた人々は、『文選』をも読んだことだろう。そうして、その中に、中国的な美の世界を象徴するような「霞」を発見したことは、想像に難くない。
ただ、その赤い美しさは、当時の日本人の美の感覚にはそぐわなかったようだ。夜明けと夕暮れの前後に立ち込める「かすみ」に彼らが見出したのは、春の訪れという季節感と、その雰囲気がかき立てる恋の心であったのだ。
そこで彼らは、「霞」という漢字をも、「春」と「恋」という二つのイメージを載せて用いることになった。その結果、朝焼けや夕焼けの色は消え、赤い「霞」は白い「霞」へと変貌を遂げたのである。
季節感と、恋の心。
『万葉集』に始まった日本の文学は、以後、この二つを軸として展開していく。とすれば、「霞」は日本的な美の世界を象徴している漢字だ、とも言えそうである。