第11話 心の底からさっぱりと――「すすぐ」と読む「雪」

 

 紀元前494年のことである。現在の浙江(せっこう)省紹興市にある会稽山(かいけいざん)の山中で、(えつ)王の句践(こうせん)は死の覚悟を固めつつあった。
 今回の戦いを引き起こしたのは、句践自身であった。隣国の()は父の代からの宿敵、その呉が戦いの準備に余念がないという情報を得て、家臣の制止も聞かずに先制攻撃を仕掛けたのである。
 ところが、結果は惨敗。句践は5000の残兵とともに、会稽山に追い詰められてしまった。降伏を申し出たが、呉王は受け入れてくれない。もはや、妻子を殺し宝器を焼き捨て、最後の突撃を行って死に花を咲かせるしかないかと思われた。
 しかし、句践に仕える大臣は、まだ諦めてはいなかった。呉王の信頼する側近が欲深い性格だと知るや、美女や財宝を贈って籠絡し、うまく口添えさせて、呉王に降伏を受け入れさせることに成功したのである。
 なんとか命をつないだ句践だったが、心に負った傷は深かった。許されて帰国した後、彼は寝起きするときも食事するときも、ことあるごとに(きも)をなめ続けた。そして、その苦みをじっとかみしめながら、自らにこう言い聞かせるのである。
(なんじ)は会稽の恥を忘れたるか?」
 いつか必ず、呉王に報復してやる。強烈な意志の下に、彼は国政に励んだ。越の国力が年を追って充実していくのに対して、勝利におごった呉は、次第に政治のたがが緩んでいく。そうして、両国の力関係は逆転するに至った。
 紀元前473年、句践はついに呉を滅ぼすことに成功する。会稽の恥から、実に21年後のことであった。


 司馬遷の『史記』に収められて名高い以上の物語から、「会稽の恥を(すす) ぐ」という故事成語が生まれた。こっぴどくやっつけられた相手に報復を遂げることや、手痛い失敗で着せられた汚名を晴らすことをいう。
 この故事成語では、「雪」を「すすぐ」と訓読みしている。日常的にはあまり目にしない訓読みだ。しかし、現代の日本語にも「雪辱」という熟語があるように、この漢字を「恥をすすぐ」という意味で用いるのは、特殊な使い方ではない。
 『史記』でも、ほかにも例がある。たとえば、紀元前627年、やはり家臣の諫めを聴かずに戦いを起こして大敗した(しん)繆公(ぼくこう)は、自らの過ちを詫びた上で、家臣たちに次のように呼びかけた。
()れ心を()くして恥を雪げ。怠ること()かれ」
 また、紀元前4世紀の終わり、(えん)国は、暴政によって混乱し、滅亡寸前にまで追い詰められた。この危機に、父王の後をついで位についた昭王は、次のように宣言した。
「誠に賢士を得て(もっ)て国を共にし、以て先王の恥を雪ぐは、()の願いなり」
 「孤」とは、王の自称。有能な人材を集めて国政に励み、父王の失態による不名誉をぬぐい去ること。それが自分の願いだ、というのである。
 「雪」という漢字は、古くは「雨かんむり」の下に「(すい)」と書いた。「彗星」とは「ほうき星」のことで、つまり「彗」は「ほうき」を意味する漢字である。とすれば、「雪」に何かを「取り除いてきれいにする」という意味があるのも、納得できる。
 ただ、多くの人にとって、そんな字源的な解説は不要だろう。
 天から降り注ぐ雪は、見渡す限りを埋め尽くして、白銀の世界へと変えてしまう。その美しさをイメージするだけで、「恥を雪ぐ」という表現は鮮烈な印象を伴って、我々の胸にしみいってくるのだから。


 だが、「雪」が「恥」以外のものをきれいにすることは、あるのだろうか?
 そこで、「恥」以外のものをきれいにする「雪」を求めて、『史記』を探してみた。すると、1件の用例が見つかった。
 戦乱の世を統一して漢王朝を開いた劉邦(りゅうほう)は、儒学者が嫌いであった。礼儀作法にうるさく、理屈ばかりこねくり回すのが、いかにも迂遠で役立たずに感じられたのだ。
 紀元前208年、そんな劉邦が、まだ「沛公(はいこう)」と呼ばれる群雄たちの1人にすぎなかったころのこと、行軍の途中に、面会を申し込んできた男がいた。差し出された名刺を見ると、高陽という町に住む酈食其(れきいき)という人物だという。
 取り次ぎの者によれば、儒学者の着る服を着た、いかにも儒学者らしい人物だとのこと。ちょうど行軍の疲れに足を洗っていたところだった劉邦は、即座に面会を断った。
 ところが、この男、それだけで引き下がりはしなかった。激怒して目をつり上げ、剣に手をかけ、取り次ぎの者をどなりつけて言うには、
 ――戻って沛公に申し上げろ! 俺は高陽の酒飲みで、儒学者なんかじゃない、と。
 その剣幕に驚いた取り次ぎの者は、慌てふためいて劉邦に報告に走った。儒学者風の男が、突然、酒飲みだと言って暴れ出したのだ。劉邦は、その人物に興味を引かれた。どうやら、これは、自分を売り込むための酈食其の作戦だったようである。
「沛公、(にわ)かに足を雪ぎ(ほこ)を杖つきて()わく、客を()きて入れ、と」
 急いで足をすすぎ、矛を杖がわりにして立ち上がり、酈食其を招き入れたのである。以後、酈食其は劉邦の下で弁舌の士として活躍し、漢王朝の創建に大きな役割を果たすことになる。
 この場面、実は『史記』では2通りの話が伝えられている。もう1つの話では、劉邦は2人の女性に足を洗わせていて、そのままで酈食其とのやりとりが始まることになっている。農民出身で皇帝にまで昇り詰めた劉邦らしい、野性味あふれる態度だ。
 それに比べると、足をきれいに洗ってから立ち上がって客人を迎える方の劉邦は、都会的とまでは言わないが、やや洗練された雰囲気がある。ここの「足を雪ぐ」からは、客人に会うために足をきれいに洗ってさっぱりする、というニュアンスを感じ取ってみたい気がする。


 「雪」が何かモノをきれいにする例としては、『韓非子(かんぴし)』という本に収録された、次のような話もある。
 儒教の祖として有名な孔子が、仕えていた()国の君主から、桃と(きび)を賜ったことがあった。その場で「どうぞ」と言われた孔子は、まず黍を食べ、それから桃を口にした。すると、居合わせた家臣たちから失笑が漏れた。
 魯の君主が言うには、こうである。
「黍は、(これ)()らうに(あら)ざるなり。以て桃を雪ぐなり」
 黍は食べるためのものではなく、桃をきれいにするために使うのだ、と。現在にたとえれば、孔子がしたことは、フィンガーボウルの水を飲んでしまったようなものだろうか。
 ただ、孔子はマナーを知らぬような人間ではない。これは、わざとやったことなのだ。彼に言わせれば、黍は上等の穀物なのに対して、桃は下等な果物だという。
「君子は(いや)しきを以て貴きを雪ぐ。貴きを以て賤しきを雪ぐを聞かず」
 ――下等なものを使って上等なものをきれいにするのが、理にかなった行いです。その逆を行うというのは、聞いたことがございません。
 そう言って、上下関係の乱れた当時の魯国の風潮を痛烈に批判したのである。
 この話、黍を使って桃をきれいにするというのが、どうにも理解しにくい。孔子がそのまま食べてしまうところからすれば黍は炊いてあったのだろうから、なおさらだ。
 実際に物理的な汚れを取り除くのではなく、何か宗教的な意味合いで、黍を使って食べ物を清めるような風習でもあったのだろうか。そう考えると、「雪」という漢字の持つ清浄なイメージが効いてくるように感じられる。


 漢字「雪」は、心に長年、わだかまっていた恥をすすぐのに使われることもある。一日の疲れがたまった足をきれいに洗うのに用いられることもある。そして、食べ物を清める場面に現れることもある。
 どうやら、「雪」がきれいにするのは、物理的なものというよりも、精神的なもののようだ。次に紹介する『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』という本に出て来る話も、そんなふうに読んでみたい「雪」の1つだ。
 呉起は、紀元前4世紀の後半に活躍した、中国古代の名将である。兵士たちと苦楽を共にして彼らの心をつかみ、巧みな戦術で強敵をしばしば打ち破った。しかし、名声を好み、そのためには妻の命でさえ犠牲にするような冷徹な性格でもあった。
 そんな彼は、()の文侯に仕えて功績を挙げ、黄河の西側に領地を与えられた。強敵、秦と接するこの土地は、戦略上、非常に重要な拠点である。
 しかし、その軍功をねたんだ者がありもしないことを告げ口したため、呉起は都へと召還されてしまう。その途中、黄河の渡し場まで来たとき、彼は、滔々とした流れを眺めながら涙を禁ずることができなかった。
 それを目にした側近は、不思議に思って尋ねた。ふだんは領地を取り上げられることなど、つっかけを捨てるくらいにしか思っていらっしゃらないのに、今はどうして泣いているのですか、と。
「呉起、(なみだ)を雪ぎて之に応じて曰わく、……」
 ――お前はわかっていないな。文侯が私を信頼してくださり、この領地を任せてくださったならば、ここを拠点に天下を統一することもできたのだ。自分がここを去れば、そう遠くないうちにこの土地は秦に奪われてしまい、天下は秦に傾くだろうよ。
 ここで「雪」がきれいにするものは、顔である。ただ、物理的に涙をぬぐい去っただけではない。
 天下統一の足がかりを失ったことに、不覚にも涙をこぼしてしまった呉起。それは、確かに彼らしくない行為であろう。だが、部下に見とがめられて涙をぬぐったその瞬間、呉起は、これまで仕えてきた文侯への思いをも、きれいさっぱりとぬぐい去った。そして、いつもの冷徹な名将へと戻ったのである。
 呉起が魏国に見切りを付け、南方の楚へと亡命したのは、その直後のことであった。