第8話 白くけぶる闇の中で――霧にまつわる3つの話

 

  思い返してみると、ぼくのこれまでの人生には、〝霧〟の実体験があまりない。せいぜい、遠くの山にかかるのを眺めたり、窓からぼんやりとにじむ街の灯を見渡したり。霧に視界を極端に閉ざされて怖い思いをしたような体験は、持ち合わせていない。
 「霧」という漢字は、「雨」と「務」とから成り立っている。「務」はまた、「(ぼう)」と「力」に分けられ、「敄」はさらに「矛」と「(ぼく)」とに分解できる。
 「矛」は、「矛盾」という熟語でおなじみのとおり、〝ほこ〟という槍のような武器を表す漢字だ。一方、「攵」は、もともとは〝棒を手に持ってたたく〟という意味だ。
 そこで、「敄」は、武器や棒を手にして〝困難に立ち向かう〟という意味になるのだという。そして、「務」は、それに「力」を付け加えて、その意味を強調した漢字なのだと、漢字学者は説く。
 さらには、「霧」にも〝困難に立ち向かう〟という意味合いがあるのだ、とする漢和辞典もある。視覚がほとんど頼りにならず、手探りで進んで行かざるをえないという状況が、「霧」という漢字の中には縫い込まれているのだ、と。
 漢字の成り立ちにはさまざまな説が並立していることが多いから、ある説だけをそのまま信じ込むのは、よした方がいい。とはいえ、「霧」とはその中を手探りで進んでいくものなのだ、とするこの字源説は、ぼくのように〝霧〟の実体験に乏しい人間には、ちょっと抗いがたい魅力をもって迫ってくる。
 霧を遠くから眺めているだけでは、何も始まらない。その中でいかに行動するかが、ドラマを生むのだ。


 『三国志演義』の第46回に、次のようなエピソードがある。
 西暦208年、中国北部を手中に収めた()曹操(そうそう)は、天下統一の宿願を果たすべく、大軍を率いて南下を始めた。迎え撃つのは、()孫権(そんけん)と、(しょく)劉備(りゅうび)の連合軍。両者は、長江中流の赤壁(せきへき)という場所で、雌雄を決することになった。いわゆる「赤壁の戦い」である。
 この一大決戦を前にして、蜀の軍師、諸葛孔明(しょかつこうめい)は、呉の将軍から、10万本の矢を10日以内に用意するように頼まれる。そんな短期間に、そんな多量の矢を製造できるわけがない。同盟を結んでいるとはいえ、呉の将軍たちは孔明を信頼せず、無理難題をふっかけたのだ。
 しかし、孔明はこの途方もない要求を、涼しい顔で引き受ける。しかも、3日もあれば十分だとまで、大見得を切って。
 3日目の夜、孔明はたった20隻の船で、長江へと乗り出した。それぞれの船に乗り込んだ兵士は、わずかに30人ずつ。ただ、船には甲板の全面に、大量のわらの束が積まれていた。
 折しも、川面には深い夜霧が垂れ込めて、向かい合っている者同士の見分けもつかないほど。その中を20隻の船は進み、対岸に停泊中の敵の大軍に近づくと、一斉にときの声を挙げた。
 急襲を受けた曹操軍だが、濃霧に遮られて、敵の姿は見えない。そこで、とりあえず、弓矢で応戦することにした。孔明軍の船には、曹操の大軍から放たれた矢が、雨あられのごとく降り注ぐ。すると、孔明は、ころあいを見て引き上げを命じた。
 戻ってみると、船に満載されたわらの束には、矢がぎっしりと突き刺さっている。その数、1隻あたり5000本以上。孔明は、約束通り、10万本の矢を用意したのである。
 天才軍師、諸葛孔明の活躍として有名なこのエピソードも、霧がなくては、成り立たない。孔明の知謀は、その夜に濃霧が長江を覆い尽くすことを正確に予想し、それを利用したのだ。
 そう考えると、霧のたちこめる長江へと漕ぎだしていく孔明の姿は、なんと颯爽としていることだろうか!


 さて、赤壁の戦いから時代をさかのぼること、60年あまり。後漢(ごかん)王朝の半ばすぎ、西暦でいうと140年代のころに、張楷(ちょうかい)という学者がいた。
 この学者、いわゆる清廉潔白な人柄で、多くの弟子に慕われた。中央からも仕官の要請が何度もあったがすべて断り、山の中に引きこもって、薬草を採って売って暮らしていた。
 そんな張楷は、道術を好み、「五里霧(ごりむ)」を生み出す術を身に付けていたという。当時の「五里」とは、約2キロメートルほど。それくらいの範囲にわたる霧を発生させることができたのだろう。
 『後漢書』という歴史書に収録されたこの話から、「五里霧中」という四字熟語が生まれた。ただ、『後漢書』は、時を同じくして「三里霧(さんりむ)」の使い手である裴優(はいゆう)なる人物がいたことも、伝えている。
 裴優は、自分の術が張楷に及ばないことを知り、教えを請うた。しかし、張楷は会おうともしない。そのうちに、
 「優、(つい)に霧を行いて賊を()し、事、(さと)られて(こう)せらる」
と『後漢書』はいう。裴優は「三里霧」の術を使って悪事を企み、事が露見して逮捕されたのだった。
 「賊」という漢字を見ると、「盗賊」とか「山賊」が思い浮かぶ。だから、ぼくなどは、裴優も霧にまぎれて強盗でも行ったのだろう、と勝手に想像してしまう。「三里」といえば、約1.2キロ。強盗を行うにはぴったりのサイズだろう。
 ところが、『後漢書』の別のところでは、西暦150年の2月に、次のような事件があったという。
 「妖賊(ようぞく)裴優、自ら皇帝と称し、誅に伏す」
 裴優は、後漢王朝の体制を覆し、自分が皇帝になろうとしたのだ。たかだか1キロちょっとの霧の中で、そんなだいそれたことを実行しようと企んでいたとは!
 人は、霧の中では、何か思い切ったことをしたくなるものなのだろうか。
 とすれば、「五里霧」の術を操る張楷は、いったい何がしたくて、霧を生み出していたのだろうか。
 張楷は、裴優の王朝転覆未遂事件の直後、そのとばっちりを受けてしばらく獄につながれていたが、やがて釈放された。その後は自宅で暮らし、70の天寿を全うしたという。


 張楷が、自分の生み出した霧の中で何をしていたのかは、わからない。いや、結局のところ、何もしていなかったと考えた方がよいように思われる。だからこそ、天寿を全うすることができたのだ。
 「霧豹(むひょう)」ということばがある。世間から隠れて、危害を避けることをいう。そのいわれは、次のようなものだ。
 時代ははっきりしないが、紀元前数世紀の昔のこと。陶という町を治める、荅子(とうし)という役人がいた。彼は3年間、陶の町を治めたが、たいして名声も上がらない。しかし、財産だけは3倍にもなった。5年たって休暇で実家に帰ったときには、馬車を100台も連ねるという豪勢さだったという。
 親戚はみな、荅子の大成功を祝福した。しかし、彼の妻だけは、そうではなかった。子どもを抱き締めて、泣いていたのである。それを見た姑が、「なんて縁起が悪い女なんだよ!」と怒ったのも、無理はあるまい。
 しかし、荅子の妻は反論する。あの人は、能力がないのに役職だけ高いのです。功績を上げていないのに財産ばかり増やしているのです。これでは、いずれ大きな災厄が降りかかってくるに違いありません、と。
 そうして、彼女は突然、南の山に住むという玄豹(げんぴょう)――黒い豹の話を始めるのだ。
 「南山に玄豹有り、霧雨七日にして下りて食べざるは、何ぞや」
 南山の玄豹は、霧雨が7日間も降り続いても、山から降りてきて食べものを探そうとはしないそうです。それは、どうしてでしょうか? 空きっ腹を抱えて、食欲ではち切れんばかりになっているでしょうに。
 「(まさ)に、(もっ)()毛衣(もうい)(たく)して文章を成さんと欲すればなり」
 「沢」とは、「光沢」の「沢」で、つやのこと。「文章」とは、美しい模様のこと。
 霧雨に濡れれば、毛皮が傷む。玄豹は、それを嫌っているのだ。自分の毛皮の光沢と模様を美しく保ちたいからこそ、目先の食欲を抑えて、霧の中でじっとしているのだ。だから、不用意に人里に姿を現して、人間に捕まえられることもないのだ。
 荅子の妻に言わせれば、夫は異なる。自分の欲を追い求めてばかりだ。だから、家の財産は増えても、町の人々は暮らしは貧しいまま。今は豪華な暮らしを楽しんでいても、近い将来、没落するのは目に見えているのだ。
 こうタンカを切った彼女は、その場で離縁を申し出た。そして、そのまま、子どもを連れて出て行ったという。
 以上は、紀元前1世紀の学者、劉向(りゅうきょう)が著した『列女伝』に載っている話である。白くけぶる霧と、その中でじっと動かぬ黒い豹のコントラストが、印象的だ。
 この豹は、霧に包まれて、何もしない。何もしないからこそ、その毛並は乱されることがなく、その輝きは失われることはない。やがて霧が晴れたとき、陽光に照らされて誇らしく立つその姿は、まわりを魅了することだろう。
 何かをしてもよい。何もしないのもよい。霧に包まれたときには、その中でどう過ごすかが、問われるのだ。
 ちなみに、『列女伝』は、陶の荅子の妻の後日談も伝えている。
 彼女が出て行って1年の後、案の定、荅子は横領の罪に問われ、一家は全員死刑という憂き目にあった。ただ、荅子の母、つまり「なんて縁起が悪い女なんだよ!」と怒ったあの姑だけは、老齢のために許されることになった。
 かつての嫁は、かつての姑を引き取り、死ぬまで孝養を尽くしたという。