第7話 人生の空白の時間――泰山に降る雨

 

 「雨垂れ、石をうがつ」ということわざは、多くの方がご存知だろう。しかし、これが漢文に由来するということは、あまり知られていないのではなかろうか。
 紀元前154年というから、前漢(ぜんかん)王朝の時代。中国南部の()という国の王が、中央政府に対して反旗を翻そうとしていた。それを知った家臣の枚乗(ばいじょう)は、王に意見書を奉って、反乱を起こす非を説いた。
 しかし、呉王はそのまま反乱を起こして敗れ、滅ぼされてしまう。せっかくの枚乗の忠告も効果がなかったわけだが、その意見書は、「上書して呉王を(いさ)む」というタイトルのもと、『文選(もんぜん)』というアンソロジーに収録されて、現在にまで伝わっている。
 枚乗は訴える。呉王が現在、いかに恵まれた地位にいて、それを危険にさらすことがいかに愚かであるか、と。そして、いったん、道に外れた行いをしてしまえば、それが最初は小さなことであっても、いずれ積み重なって大きな災いになるのだ、とも説く。そのたとえとして、
 「泰山(たいざん)(りゅう)は石を穿(うが)つ」
というのである。
 「霤」とは、〝雨垂れ〟を指す漢字。「雨垂れ、石をうがつ」とは、ここから生まれたことわざなのである。
 ただ、ちょっと気になるのは、どうして「泰山」なのか、ということだ。
 泰山とは、中国は山東省にそびえる名山。海抜は1524メートルだからさして高くはないが、黄河の作り出した大平原にそそり立つ山容は峻厳で、古来、中国の山岳信仰の総本山として崇拝されてきた。
 そんな霊山だからこそ、雨垂れも石をうがつのだ、ということだろうか。ふつうの平凡な雨垂れだって、石に穴を空けることぐらいできるだろうに。
 ここで枚乗がわざわざ「泰山」を持ち出した意図は、ぼくにはよくわからない。ただ、中国第一の霊山には、なぜか雨垂れがよく似合う。――そんなふうに思ってみたりもするのだ。


 時代は65年ほどさかのぼって、紀元前219年のこと。ある男が、泰山の頂に立っていた。彼の名は、 嬴政(えいせい)。一般には、(しん)の始皇帝として知られている人物である。
 嬴政は、秦の国の王であった。もともと、西方の大国として知られていた秦は、嬴政の時代に、信賞必罰(しんしょうひつばつ)を重んずる合理的な政治思想を採用して、飛躍的に力を伸ばした。功績を挙げたものにはきちんと賞を与え、失敗したものは必ず罰する。そうやって国民のやる気を煽ることで、国力を最大限に活用したのである。
 紀元前221年、秦はついにほかの国々をすべて滅ぼして、中国史上初の統一王朝を樹立する。その直後から、嬴政は、精力的に行政改革に乗り出した。
 たとえば、それまで、国ごとにばらばらに定められていた長さや重さの単位、文字の書き方などを統一して、速やかで合理的な行政事務が行えるようにした。また、あの「万里の長城」を整備して、北方の異民族から中華世界を守ろうとしたのも、嬴政だ。一方で、「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」と呼ばれる厳しい思想統制を行ったのも、彼の中央集権政策の1つであった。
 そうやって史上空前の統一国家を作り上げていった嬴政は、従来からある「王」という称号では満足できなくなった。そこで、「皇帝」という称号を作り出し、自らを「始皇帝」と呼ぶように命じた。〝ファースト・エンペラー〟の誕生である。以後、2000年以上の長きにわたって、中国には「皇帝」が君臨し続けることになった。
 さて、中華世界のたった1人の支配者となった始皇帝は、そのことを天帝に報告せねばならぬ、と考えた。そこで、天に最も近いと信じられた場所、泰山の頂上に登って、報告の儀式を行ったのである。
 儀式を無事に終えた下り道、泰山に雨が降った。司馬遷が著した歴史書『史記』には、
 「風雨、(にわ)かに至り、樹下に休む」
とある。さしもの「皇帝」も、泰山の雨はどうすることもできなかったと見える。木の下に逃げ込んで、雨宿りをしたのだ。そうして、
 「因りて()()(ほう)じて五大夫(ごたいふ)()す」
ともある。自分を雨から守ってくれたその木に対して、「五大夫」という官職を授けた、というのである。
 信賞必罰を重んじた始皇帝のことだ。功績を挙げたものであれば、それがたとえ樹木であっても、ほうびを与えねばならぬ。そう考えたのだろうか。『史記』の伝えるこのエピソードは、そういう意味では、いかにも始皇帝らしいといえる。
 しかし、別の見方をすると、始皇帝らしくないエピソードだとも読める。彼は、合理主義者なのだ。合理主義者が、樹木に官職を与えるなんていうばかげた振る舞いをするだろうか?
 あるいは、これはちょっとした〝おふざけ〟なのかもしれない。歴史上に屹然として立つ〝ファースト・エンペラー〟にも、人間らしくふざけてみる瞬間があったのだ。
 人間界のあらゆる権力を手に入れた始皇帝が、泰山の雨に降られて、木の下で雨宿りをしている。それは、統一帝国の建設へ向けてひた走ってきた彼の人生の中ではめずらしい、何もすることがない、空白の時間だったことだろう。
 人は、不意に訪れた空白の時間に、ひょんなことを思いつくものなのである。


 始皇帝から、さらにさかのぼること数百年。時代ははっきりわからないが、伯牙(はくが)という男が、泰山の北麓を旅していた。そして、やはり、急な雨に襲われて、岩の下に逃げ込んで雨宿りをすることになった。
 中国古代の思想書の1つ、『列子(れっし)』では、そのときの伯牙のようすを次のように描いている。
 「心悲しみて、(すなわ)ち琴を()きて(これ)()す」
 雨に降り込められた伯牙は、「悲しみ」を感じて、琴を手に取って演奏を始めたのである。彼は、実は琴の名手なのだ。
 伯牙については、鍾子期(しょうしき)という友人との次のようなエピソードが有名だ。
 あるとき、伯牙が高い山に登っている気分で演奏すると、鍾子期は「まるで泰山のように険しい曲だね」と言った。またあるとき、川の流れを思い浮かべながら琴を弾くと、「長江や黄河のような、ゆったりした曲だね」と言った。
 鍾子期の鑑賞力の高さに感動した伯牙は、鍾子期のためだけに音楽を奏でるようになった。鍾子期が亡くなったとき、伯牙は琴の絃を断ち切ってしまい、二度と演奏しようとはしなかったという……。
 泰山北麓の旅のときも、伯牙は鍾子期と一緒だったらしい。伯牙がまず「霖雨(りんう)(そう)」という曲を弾き、次に「崩山(ほうざん)の音」という曲を奏でたところ、
 「曲の奏せらるる(ごと)に、鍾子期、(すなわ)ち其の趣きを(きわ)む」
とある。
 「霖雨の操」の「操」とは、琴の楽曲をいうらしい。「霖雨」とは〝長雨〟のことだから、〝長雨のセレナーデ〟とでもいったところか。ついでに、「崩山の音」の方も、〝山崩れラプソディー〟とでも想像しておこう。
 この2つの曲の「趣き」を、鍾子期はピタリと言い当てた、というわけなのだが、はたしてこのとき、彼は何を言ったのだろうか。残念ながら、『列子』には具体的なセリフはないから、わからない。
 ただ、「長雨みたいな曲だね」「山が崩れんばかりのメロディだね」といったセリフではない気がする。2人は山中の岩陰で雨宿りしているのだから、それだとあまりにも単純すぎる。琴の名手が惚れ込むほどの鑑賞力の持ち主が、そんな月並みな感想を漏らしてしまっては、興ざめではないか。
 興ざめではなかった証拠に、伯牙は、鍾子期のことばを聴いて、琴を奏でる手を止めてこう言ったという。
 「善きかな、善きかな、()の聴くこと」
 すばらしいなあ、すばらしいなあ、君の鑑賞力は。――そう感嘆の声を上げた伯牙は、さらに、「君が想像していることは、ぼくの気持ちとぴったりだ」と言う。そうして、次のように嘆いてみせたのである。
 「(われ)、何に於いて(せい)を逃れんや」
 『列子』のこの最後の一文は、解釈がむずかしい。文脈からすなおに考えると、〝ぼくの気持ちは、君の鑑賞力にかかると何でもお見通しだね〟といった意味になるはずだ。が、それだと、「声」を〝鑑賞力〟と訳すことになり、ちょっと居心地が悪い。
 そこで、「声」とは〝琴の音〟のことではないか、と考えてみる。〝ぼくの気持ちは、どうしたって琴の音に出てしまうんだね〟。だから、君にはお見通しなんだね、と。
 そもそも、急な雨に降られての雨宿りで、〝長雨のセレナーデ〟というのは、ちょっと合わない気がする。長雨というのは長く降り続くもので、急な雨とは異なる。〝にわか雨のプレリュード〟ならともかく、〝長雨のセレナーデ〟は、ちょっと異質だ。
 とすれば、琴の名手が奏でたメロディは、眼の前に急に降ってきた雨に、直接、触発されたものではなかったのではないか?
 雨宿りとは、移動の中断を余儀なくされた、空白の時間である。人は、雨宿りをしながら、ぽたぽたと落ちる雨垂れをぼんやりと眺めて、ふだんはあまり考えぬような、あらぬことを考える。
 秦の始皇帝は、ふと、樹木に官職でも与えてみようという気になった。一方、伯牙のぼんやりした心に忍び込んで来たのは、「悲しみ」であった。
 真っ白になった心で感じる、そこはかとない「悲しみ」。それは、ある意味、人間という存在の根源に横たわる「悲しみ」ともいえる。伯牙が琴を手に取ったのは、そんな「悲しみ」に突き動かされたからではなかったか。
 このときの伯牙が奏でた琴の響きには、人生の根源的な「悲しみ」がにじみ出ていた。鍾子期は、それをたしかに聴き取ったのである。