最初の作品「キャラメル工場から」を窪川いね子名義で雑誌「プロレタリア芸術」に発表したのが1928(昭和3)年、24歳のとき。最後の随筆集『あとや先き』を中央公論社から刊行したのが1993(平成5)年だから、戦争をはさんで65年の長きにわたって、ほぼ毎年、コンスタントに作品を発表してきたことになる。
本や雑誌に掲載された佐多の写真を見ると、彼女の美しさはきわだっている。ただし、眉の間にぼんやり煙るような憂いを湛えた若き日の美貌と、眼鏡をかけ、きっと口を引き結んだ、老年の凛としてたくましい美しさの間には別人と言っていいほどの隔たりがある。この変貌はいったいどういうことだろう。
幼くして母に死に別れ、家の経済を助けるため小学校を五年で辞めて働かざるをえなかった。デビュー作の舞台にもなった神田和泉橋のキャラメル工場や、上野の料亭の小間使いなどの職を転々とした。少しでも本に近いところにいたいと選んだ日本橋丸善洋品部の女店員時代に見初められて資産家の当主である大学生に嫁ぐが、救いを求めるように手を伸ばした結婚は早々と破綻する。絶望のうちにひとり自殺を図り、長女を妊娠中には夫婦で薬を飲み心中を企てた。二人とも命はとりとめるが、出産後に離婚が成立。子供を抱えて本郷のカフェに勤め始めたときに知り合った、再婚相手の文芸評論家はたびたび女性と問題を起こし、新聞沙汰にもなる。浮気相手の一人は自分の友人でもある有名な先輩女性作家だった。
人気作家として戦争中は軍部に協力を求められ、戦地を慰問し記事や小説を書いた。戦後はそのことを理由に作家仲間から指弾され、排除され、戦争責任を問われた。彼女自身の表現を借りれば「恥辱に身をさらした」。左翼作家の戦争協力ということで、戦争責任については死後も問われ続けているといっていいだろう。
一度や二度の挫折ではない。何度も何度もつまずき転んでも、そのつど立ち上がり、顔を上げ、自分の歩幅を確かめるようにしてから、まがりくねった道のりを再び歩き出した。転ぶたびに内省を深め、みずからの傷を核として作品にふくらませていった。作家となってからは、離婚の前も後も、筆一本で一家の生活を支える時期が長かった。
佐多稲子が作家になるにあたっては、小さなカフェの女給をしていたときに、客としてきていた中野重治や堀辰雄、夫となりのちに離婚する窪川鶴次郎ら雑誌「
「佳人(筆者注:佐多のこと)は皆の佳人であり皆の女友達であった」(「驢馬の人たち」、「文学界」昭和34年7月号)
控えめな聡明さはもちろんのことだが、おそらくはその翳りのあるはかない美しさも若い文学青年たちの心をとらえ、熱心に応援する気持ちにさせたことだろう。そこだけ切り取れば一編のシンデレラストーリーを思わせなくもないが、作家にとって、幸運なデビューはその後の作家生活の幸運を保証しない。実力からかけ離れたスタートを切ることは、むしろマイナスに働くことも多い。長く第一線に立ち続けることを可能にしたのは、ひとえに彼女自身の才能と運、たゆまぬ努力、逆境から立ち上がる強い精神力によるものだと思う。
未来のなさを嘆いて厭世観にとらわれ、流されるように生きながら自殺することばかり考えていた暗い眼をした少女は、どのような人生経験を通してたくましく変貌し、作家として書き続けることができたのか。
自分の力で自分の顔をつくりあげていった人として、私は佐多稲子に興味を持ち、その小説を読むようになった。
この連載では昭和という長い時代を生き抜いた一人の女性作家の足取りを追いながら、重ねるようにしてその作品を読んでいきたい。