第1回 美しい顔
佐多稲子(1904-98)の作家としての活動期間は長い。

 最初の作品「キャラメル工場から」を窪川いね子名義で雑誌「プロレタリア芸術」に発表したのが1928(昭和3)年、24歳のとき。最後の随筆集『あとや先き』を中央公論社から刊行したのが1993(平成5)年だから、戦争をはさんで65年の長きにわたって、ほぼ毎年、コンスタントに作品を発表してきたことになる。

 本や雑誌に掲載された佐多の写真を見ると、彼女の美しさはきわだっている。ただし、眉の間にぼんやり煙るような憂いを湛えた若き日の美貌と、眼鏡をかけ、きっと口を引き結んだ、老年の凛としてたくましい美しさの間には別人と言っていいほどの隔たりがある。この変貌はいったいどういうことだろう。

 幼くして母に死に別れ、家の経済を助けるため小学校を五年で辞めて働かざるをえなかった。デビュー作の舞台にもなった神田和泉橋のキャラメル工場や、上野の料亭の小間使いなどの職を転々とした。少しでも本に近いところにいたいと選んだ日本橋丸善洋品部の女店員時代に見初められて資産家の当主である大学生に嫁ぐが、救いを求めるように手を伸ばした結婚は早々と破綻する。絶望のうちにひとり自殺を図り、長女を妊娠中には夫婦で薬を飲み心中を企てた。二人とも命はとりとめるが、出産後に離婚が成立。子供を抱えて本郷のカフェに勤め始めたときに知り合った、再婚相手の文芸評論家はたびたび女性と問題を起こし、新聞沙汰にもなる。浮気相手の一人は自分の友人でもある有名な先輩女性作家だった。

 人気作家として戦争中は軍部に協力を求められ、戦地を慰問し記事や小説を書いた。戦後はそのことを理由に作家仲間から指弾され、排除され、戦争責任を問われた。彼女自身の表現を借りれば「恥辱に身をさらした」。左翼作家の戦争協力ということで、戦争責任については死後も問われ続けているといっていいだろう。

 一度や二度の挫折ではない。何度も何度もつまずき転んでも、そのつど立ち上がり、顔を上げ、自分の歩幅を確かめるようにしてから、まがりくねった道のりを再び歩き出した。転ぶたびに内省を深め、みずからの傷を核として作品にふくらませていった。作家となってからは、離婚の前も後も、筆一本で一家の生活を支える時期が長かった。

 佐多稲子が作家になるにあたっては、小さなカフェの女給をしていたときに、客としてきていた中野重治や堀辰雄、夫となりのちに離婚する窪川鶴次郎ら雑誌「驢馬(ろば)」の同人と偶然に出会ったことが大きい。詩を書いていた彼女に散文を書くようにすすめ、原稿を読んでタイトルを「キャラメル工場から」としたのは中野である。「驢馬(ろば)」の顧問的存在であった年長の室生犀星の回想によれば、同人はみな彼女のことを好いていたという。

「佳人(筆者注:佐多のこと)は皆の佳人であり皆の女友達であった」(「驢馬の人たち」、「文学界」昭和34年7月号)

 控えめな聡明さはもちろんのことだが、おそらくはその翳りのあるはかない美しさも若い文学青年たちの心をとらえ、熱心に応援する気持ちにさせたことだろう。そこだけ切り取れば一編のシンデレラストーリーを思わせなくもないが、作家にとって、幸運なデビューはその後の作家生活の幸運を保証しない。実力からかけ離れたスタートを切ることは、むしろマイナスに働くことも多い。長く第一線に立ち続けることを可能にしたのは、ひとえに彼女自身の才能と運、たゆまぬ努力、逆境から立ち上がる強い精神力によるものだと思う。

 未来のなさを嘆いて厭世観にとらわれ、流されるように生きながら自殺することばかり考えていた暗い眼をした少女は、どのような人生経験を通してたくましく変貌し、作家として書き続けることができたのか。

 自分の力で自分の顔をつくりあげていった人として、私は佐多稲子に興味を持ち、その小説を読むようになった。

 この連載では昭和という長い時代を生き抜いた一人の女性作家の足取りを追いながら、重ねるようにしてその作品を読んでいきたい。

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。