人間の方則〈最終回〉
 生活のリズム
外山滋比古


 リズムというと音楽のことしか考えないのは頭が古い。体のリズムはいのちにかかわる。心臓は、生きているかぎり規則的に脈を打っている。脈拍はリズムで、速すぎても、おそすぎてもいけない。呼吸は息を吸ったり、吐いたりでやはり一定の調子、リズムをもっている。
 歩くのはそれほど規則的ではないが、一定の歩調がある。ゆるやかな歩調はアンダンテと呼ばれ、音楽でも用いられる。というか、歩調が音楽用語を借りているのか。
 日本人が何人かでいっしょに歩いているとき、歩調が合っていることがすくない。ガタピシしている。ということは、お互いの気持ちがちぐはぐであることを暗示していて、みっともない──そう考える人がすくないからであろう。ドタバタ歩きが普通である。
 学校の体育でも、そのくらいのことは教えてもらいたい。外国のまねをして靴をはいたのはいいが、歩き方や歩調については、なにも教わらないから、こんなことになる。どこの国でも、軍隊が行進するとき、一糸乱れぬ歩調をとる。
 新劇の役者が舞台を歩くのを見て、外国人が、歩き方がなっていない、と言ったという話がある。人が並んで歩くときは歩調を合わせないといけないということすら知らないでも紳士淑女であることのできる国だ。むずかしいことを言ってもらっても当惑する。しかし、歩くにもリズムがあるということは有益な知識である。
 脈拍、呼吸、歩調までは、生理的リズムである。そのほかに、生活的リズムがある。朝起きて、食事をする。仕事をして昼になったら食事、ひと休みして夕方まで働いて、食事。あとは寝る。大まかなパタンであるが、生命のリズムのように規則正しくない。各人の生活様式によってまちまちさまざまになる。かつてイギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクは
   Think in the morning.  朝、考えよ
   Act in the noon.    ひるは働き
   Eat in the evening.    夕方食し
   Sleep in the night.   夜は寝よ
 という詩を残した。この通りの生活をすれば詩人のリズムになる。
 昔から、本を読む人が、眠った方がよい時間に読書、勉強した。 「螢雪の功」などというのは夜の勉強をたたえていることになる。健康に悪かったに違いないが、知らぬが仏、夜学をありがたがった。
 電灯が普及して、夜ふかし、宵っぱりの朝寝坊が、しゃれた生活のように錯覚され、文士などが夜おそくまで原稿を書いて得意になった。学生も、徹夜の勉強をしていい気になる。夜おそくまで仕事をすることがえらい、勤勉だとほめられるといつしか、夜型人間の羽振りがよくなって、朝ぼけの人間がふえた。そういう人にとって、生活のリズムなどあったものではない。
 近代人がおしなべて、朝のうちハツラツとしていないのは、ひとつには、この生活のリズムの喪失とかかわりがあるように考えられる。ひねくれた見方をするなら、夜型人間は太陰暦のリズムで生きていることになる。一日は夕方、月の出ることから始まる。そして朝日の登るころに終わる。クリスマスが十二月二十四日の宵から始まって、翌、二十五日の昼には終わるのは太陰暦リズムの名残りである。お祭りで宵祭りをするのも同じ理由からだろう。
 太陰暦の思想は、一日が朝から始まる。暦の上ではどこの国も、太陽暦によっている現代なのに、知識人を中心に太陰暦型生活が威張っているのは、考えてみると、なかなかおもしろい。

 いのちのリズムには休止ということがない。心臓が、ちょいと、ここらで、ひと休み、などと休止したらことである。生まれる日から、いや、生まれる前からリズムを刻んで動きつづける。死ぬまで無休で、まことにご苦労なことである。
 人間のすることは、そうはいかない。新聞や郵便は、むかしはきちんと毎日、配達してくれたが、いつとはなしに怠け出し、郵便は日曜休日の配達を休み、新聞は勝手に休刊日をこしらえる。酒のみが休肝日をつくって酒をやめるのに倣ったという俗説があるが、要するに休みたいのである。戦前、郵便には一日に何度も配達があったというのがウソのようだ。休みをとるのは働くものの権利である、というつもりらしい。そこへいくと、電車や列車が年中無休で走っているのがいじらしく思われる。電気、水道、ガスが休んだら、生活が危うい。これらが、ライフ・ラインと呼ばれるのはたいへんよろしい。ライフ・ラインは心臓にまけずに動いてくれる。リズムはない。ぶっつづけで、その点、心臓や呼吸以上に不断不休である。
 一週間に一日は仕事を休みたい、というのは他人のために働いている人間の考えである。自営の人はそんなことは考えない。農業などでは晴耕雨読と言ったが定休日をつくろうなどとはしなかった。サラリーマンははたらく喜びが足りない。はたらいても自分の得になるという実感が乏しいから、できれば休みたいと考える。
 天地創造の神話がある。天地を造りたもうた神も、七日目には休まれた。これに倣うのが分別である、と思ったかどうかわからないが、七日目を安息日(サバス)とした。ユダヤ教では土曜、キリスト教では日曜、イスラム教では金曜日をサバスとしたから、曜日の足並みは合わないが、仕事や旅行などはせず、祈りと休息にあてることにしたのはどこも同じだ。末世の人間は祈るより休息に熱心になるのは是非もない。ヨーロッパの社会的リズムの柱である。
 神道や仏教は、安息日などで仕事を休むことは考えなかった。農本社会だからであろうか。神社は年に一度か二度の祭礼、仏教はもうすこし度々の縁日などつくって参詣の人を集めた。だいたいにおいて、あまり休息を重視していない。年中無休を暗に肯定している。
 定期的に休むということをしないところではカレンダーという一覧、曜日表は必要がない。戦前、一般の家庭でカレンダーのあったのは例外的な家庭である。その代り、日めくりという、一枚一枚やぶいていく暦が柱などにぶらさがっていたものである。日めくりでは生活のリズム感は生じにくい。
 カレンダーは一カ月が一覧できるから、七日ごとにリズムも感じるのに都合がよい。ところが、日月火水木金土となっているのと、月火水木金土日となっているのとあって二通りのカレンダーがあるのを知らない日本人がすくなくない。いま企業などの作るカレンダーは「日月火水木金土」式が多い。月火水……式は旧式だと思っている人すらある。
 日月火型カレンダーの弱点は、週のはじめから休んでいる、という点である。働く人はともかく企業としては、一週が休日で始まるのはあまりおもしろくない。できれば、仕事のはじまる月曜を週の頭にもってきたい。アメリカあたりで考えそうなことで、日本でもさっそくまねした。もうひとつ、日月火型の不都合な点は、これだと、週末の日曜が週頭へ来て、ウィーク・エンド(週末)が分裂することである。日月型が一般的になれば、ウィーク・エンドという語を葬るほかはない。さてどうするか。世界がいま迷っているのだろうか。
 中国では、一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日、つまり陽の数字の重なる一日を、節句として祝ってきた。日本でも九月九日(重陽)をのぞいて、新年、雛の節句、端午の節、七夕を祝う(九月九日は、九が苦に通じるところから敬遠したのか?)。
 戦前は、いまに比べて休みがすくなかった。学校が日曜以外、夏、冬、春の休暇を別にすると──一月一日、二月十一日(紀元節)、四月二十九日(天長節)、十月十七日(神宮祭)、十月二十三日(新嘗祭)、十一月三日(明治節)くらいであった。
 戦後、民主主義になって、一般の好むところに合わせて政治が動くようになり、休日がふえ出した。休みをふやすのにはカネはいらないし、反対するものもいないから、ふえる一方で、へらしたためしがない。
 とどめをさしたのが週休二日制。学校は五日制と言ったが、土日を休むこと、官庁、会社と異なるところがない。いい年をしたおっさんが、休みがふえた休みが多くなったといって喜んだのは、いかにも幼稚である。休みがふえたら、生活様式の一部を変えないことには健康が危うい──それくらいのことは言われなくてもわかっているのに、実際、ほとんど考えられなかったのはお粗末というほかはない。しかし、それは大人のこと、週休二日制で健康を害しても自己責任で対処できる。
 学校はそうはいかない。
 学校は工場や事務所より長い歴史をもっている。サラリーマンや労働者がいなかったときから大学はあった。教育はまず大学から始まった。中世ヨーロッパである。小学校が生まれるのは五、六百年も後のことになる。いまの学校はそういう大昔の大学のヘソの緒をかすかに残している。ヨーロッパの真似をした日本の学校もいくらか名残りをとどめている。
 大学、というより、大学で教えた知的エリートは概して怠けものであったらしく、やたらに休暇をつくった。安息日に休むのはもちろんだが、クリスマス、復活祭など理由がつけばどんどん休んだ。おまけに、長い長い夏休みを休んだ。心がけのいい教師は秋からの講義の準備をしたかもしれないが、普通はなにもしないで過ごしたであろうと想像される。
 同じように休暇を過ごした学生が、大学へもどって、新しい学期にのぞむと心が沈む。暗黒の始業である。月曜から始まるから暗黒の月曜日(Black Monday)と怖れられた。それが、このことばの起りである。
 そんなこともよく知らない連中が、株式相場の暴落が月曜だったりすると、さっそくブラック・マンデーといって騒ぐ。
 そういう大事件がおこらなくても、サラリーマンが、月曜気分(Monday blues)をかこつことになる。
 月曜がつらいのは、月曜のせいである。前日、のんびり、あるいは、だらだらすごしたからである。一週間刻んできたリズムが休日で途切れてしまう。走っている車は大してエネルギーを使わないが、いったん止まった車を始動させるにはたいへんな力を要する。月曜の仕事がおもしろくないわけである。
 こどもは大人より正直だから、月曜気分はサラリーマンの月曜とは比べものにならない。勤めの人は、カネをもらえるが、こどもはなにもいいことがない。いやだなあ──、そう思っていると、マカフシギ、腹がいたくなってくる。休めという合図だと、欠席をきめる。そうすると、火曜の朝はいっそうユウウツになる。なんとか休む口実はないかと考えていると、胸がむかむかする。助かったとは思わないが、病人みたいにしていれば、叱られる心配もない。それがきっかけで、不登校児になることもある。
 休みが週一日の時代でも、月曜の欠席が多かった。それが、二日つづけて休むようになったのだから、月曜は、毎週、ブラック・マンデーそのものになる。学校五日制になるとき、学校も家庭も、社会も、すこしは、そういう心配をしておくべきだった。それを怠ったために、どれくらい教育が低下したかしれない。
 大人に比べてこどもは順応性が高いから、リズムのできるのも早い。月曜、いくらか重い気持ちで学校へ行っても、火曜になれば調子がでる。水、木、金といよいよ快調である。そこで大休止となって、せっかくできていたリズムはパッタリ切れる。すると疲れも出る。二日の休み、どうしたらいいのか。教師も親もまったくわかっていない。のびのび遊ばせればいいなどと間抜けたことを言って、責任を回避した。リズムの大切さを知らないのだ。
 不用意な大休止は、頓挫に似たり、である。へたに休むのは悪魔に乗ぜられているのである。サラリーマン中心の社会は、それがわからぬくらい愚かになっている。
 昔の奉公人は年中無休が建前である。盆、暮れに骨休みがあったが、あとは毎日、同じリズムではたらいていたが、勤めがつらくてやめるのは限られていた。いまのサラリーマンはそういう昔の働き方をいかにも非人間的であるように考えるけれども、実は、きわめて合理的であったのである。
 仕事はつらく休みはたのしい、という常識も幼稚である。つらい仕事がなくては、休みはそもそも存在してはいけないのである。ひと休みはいい。一日まるまる休むなどというのは自然の理にも反する。
 学校は時間割を作っている。算数、国語、社会、体育、昼休み、音楽、理科など、教科の配列はほぼでたらめだが、間に十分くらいの休み時間がある。これが、リズムをつくるのに大切である。ぶっつづけに授業すると学習効率は悪くなる。休み時間をはさんだ時間割をつくったのはたいへんな知恵であったと思われるが、ほかの時間はまるで野放しである。

 現代は多忙である。多忙だと思っている人が多い。しかし、たいへん多忙な人が、忙中の閑をたのしみ、会合などに遅刻することもない。忙しい人ほどヒマがあるというが、リズムのある生き方をすれば、多忙で死ぬことはない。乱調の生活では、すこし仕事が多くなると生きるリズムを崩して健康を害する。リズムを考えると、一日休みというのが危険である。日曜には仕事と関係のないことに没頭するのは知恵である。イギリスの大宰相チャーチルは日曜に絵筆をとり、日曜画家の称号を贈られた。日本でも地方銀行の頭取であった川喜田半泥子は、ひまを見つけて、焼きもの作りに打ち込み、陶工顔負けの名作をのこした。忙しくてなにもできないなどという弱虫はすこし見習った方がいい。
 季節の移りかわりなど、おのずから生ずるリズムもあるが、人間はもっときめこまかな生活のリズムがないといけない。それには計画を立てる必要がある。
 日本人はおそらく世界でもっとも日記をつけるのが好きな国民であろう。平安期の昔から日記の名のついた本があった。いまも日記をつけて得意になっている人がすくなくないが、日記はそれほど、ありがたいものではないかもしれない。
 日記をつける時間があったら、一日の予定と計画を、あらかじめ立てる習慣が重要である。このごろようやく生活習慣の重要性が認められつつあるが、りっぱな日々の予定、計画は、自分なりのリズムをつくる上でこの上なく重要であるように思われる。それで忙しさは、ほぼ解消、ハツラツとした生活のリズムがおのずから生まれる。生活のリズムにとって睡眠はきわめて大切である。リズム・メーカーであるからだ。

〈第十回・終〉

著者略歴
一九二三年愛知県生まれ。英文学者、言語論者、評論家。一九四七年東京文理科大学英文科卒業後、同大学院特別研究生修了。一九五一年雑誌「英語青年」編集長。東京教育大学助教授を経て一九六八年お茶の水女子大学教授。一九八九年同大学名誉教授。同年、昭和女子大学教授、一九九九年同大学退職。著書に、『少年記』(中公文庫)、『失敗の効用』(みすず書房)、『「マイナス」のプラス―反常識の人生論』(講談社)、『日本語の作法』(新潮文庫)、『思考の整理学』(ちくま文庫)等がある。