永遠のピアノ
毛沢東の収容所からバッハの演奏家へ ある女性の壮絶な運命
シュ・シャオメイ[著] / 槌賀七代[日本語監修] /
大湾宗定、後藤直樹、阪口勝弘、釣馨[訳]
音楽があったからあの革命を乗り越えられた。
前半生を革命で失った女性がピアニストになるまでの、衝撃的自伝。
幼少期に得た、ピアノを弾くことの喜び。しかし歴史はその素朴な喜びを抱き続けることを許さない。十代の希望にあふれる少女を、革命へと巻き込んでいくのだ。1966年、著者が育つ中国に文化大革命の嵐が吹き荒れる……。
西洋音楽を演奏することは禁じられ、場合によっては死をも意味することになった。革命の高揚に著者自身も煽られ、一度はピアノを放棄して農村へと放逐される。
けれども、やがて抑えがたくなる演奏することへの渇望。監視の目を逃れながら、何とかピアノを演奏できるようになると、この喜びを二度と手放さない強固な意志を獲得する。
文化大革命が終結すると、再び演奏家を目指し、自由の国アメリカへ向かう。カルチャーギャップと、言葉も通じないさらなる苦難を乗り越えて演奏の技術を高め、フランスで本格的な演奏家としてデビューしたのは40歳の時だった。
中国現代史の重要な証言であるとともに、音楽が人生に何をもたらすのか、芸術の意味とは何かを問う波乱の人生絵巻。バッハや老子への思索を底辺に潜ませた多層の物語は、フランス語で著された最も優秀な音楽書籍に贈られる「グラン・プリ・デ・ミューズ」を受賞しました。
【本書の内容】
【アリア(はじめに全編)】
「おまえが生まれた日……」
祖母は嬉しそうに、何度も何度もその話を聞かせてくれた。「その日の夕方、上海の空を見たら、夕日が雲間から差し込んでいてね、輝いていたんだ。あんなに美しい夕日はそれまで見たことがなかったね……。だから私は確信したよ、おまえの人生は、この移ろい行く赤い夕日のように色とりどりの人生になるだろうとね」
それは毛沢東による中華人民共和国建国宣言から数週間後のことだった。
「これ以後、中国人は奴隷になることはない」
毛沢東は天安門広場で、そう宣言した。これほどまでに真実になると同時に虚偽となる予言は稀であろう。
私は自分の人生について語るのをためらってきた。過去について語ることがいかに無意味なことかをいつも父から言い聞かされていたからだ。
「シャオメイ、いったい何の意味があるんだ。死ぬ時は、何も残しちゃいけない。たとえ残したくても、それは無理なんだ。太陽や風や雪が、おまえの残した足跡をいつかは消してしまうんだから」
そして諭すように付け加える。
「考えてごらん、空高く飛ぶ雁のことを。彼らはとても長い距離を飛んで移動するが、地面に一度も足を着けず、土に跡を残すこともない。彼らをこそ、見習わなくっちゃ。地面をぴょんぴょん跳ねているスズメじゃあだめだ。長い距離を移動する雁の思いを、スズメは決して知ることはできない。燕雀安鴻鵠の志を知らんやだ」
父の言うとおりだ。
私には書き残す理由も見当たらなかった。
「私には音楽がある。音楽で自分を表現できるじゃないか」
さらにこうも考えた。
「同じ世代の人の中には、私よりももっと苦しい目に遭った人や大変な人生を歩まなければならなかった中国人がたくさんいる。私には語る権利がない」
けれども、物事には、いろいろな側面や見方があり、場面や相手により違った様相を見せる時がある。だから私に見えたものを書いてみたい。何より、文化大革命の犠牲になった人々のために。
四十年を経た今もなお、文化大革命についてはあまり語られていない。欧米においては、なおさら知られていないように思う。それを、私は何度も思い知らされてきた。
そして、私は中国と欧米という、三つの異なる国に住む機会に恵まれた。そこから私は人生の教訓を得たと思う。文化とは混ざり合い、影響し合うものだということだ。だからこそ互いに対話が大切なのだと。
この教訓を得るに至った私の人生を語りたいと思う。
この本は三十章からなる。三十というのはバッハの傑作、『ゴルトベルク変奏曲』になぞらえた。
三十の章とアリア。アリアで作品は開かれ、アリアで閉じる。アリアは人生の輪廻の環を開き、閉じる鍵なのだ。
よく問われるのは、なぜ西洋とはかけ離れた文化で育った中国人がバッハを奏でられるのかということだ。しかし、この本をお読みになれば、ご理解いただけるものと信じている。
何よりも、この本を読み、バッハをもっと聴きたい、聴き直したいと思っていただければ幸いだ。
さらに、中国の偉大な哲人、老子にも興味を抱いていただければと願う。なぜなら、バッハと老子、この二人の賢人は似通っており、中国と西洋という二つの文化が彼らによって結びつくはずだからだ。
掲載情報他
【著者略歴】
シュ・シャオメイ
(Zhu Xiao -Mei、朱曉玫)
中国・上海生まれ。幼少の頃より母からピアノの手ほどきを受け、八歳になるとラジオやテレビで演奏を披露するほどの腕前となった。北京中央音楽学院。在学中に文化大革命が起こり勉学を中断、五年間、内モンゴルの再教育収容所での生活を強いられた。その後、北京へ戻り北京中央音楽学院に再入学。一九八〇年にアメリカに渡り八四年にはパリに移住、後に定住を決意する。以降、ピアニストとしてのキャリアを花開かせ、ヨーロッパ、アメリカ、アジア各国の大ホールで演奏し高い評価を得ている。各国の音楽フェスティバルにも招かれ、定期的に国際コンクール(クララ・ハスキル、ロン=ティボー、バッハなど)の審査員を務めている。